【note】

あらためて2文を比べるために、3文を比べてみると、

  1. cook
    until about 2 minutes
     ↳before it would be done.
  2. place under the very hot grill
    ↳, turning once
     before it is done.
  3. Take out the fish
    ↳, pat it dry very gently.

類似の表現に、by がある。

と書いていたら、眠くなってしまった。
would be”と”is”の違いに言及していなかったことに気づいた次第である。

こうやって見ると、”Speaking”という話が、当初は、なぜ、外国語指導助手(Assintatnt Language Teacher)から出て来たか、に察せられることが在る。
”ing”を観察して、「現在進行形」「現在分詞」「動名詞」「分詞構文」と命名(概念類型に分別)して済ませていいの、特に「受験英語」では、「分詞構文」を定式化して教えていたと思うけれど、或いはせいぜい「しつつ」「しながら」という意味を加味して!教えていたと思うけれど、「そういうことかな?」と多少の疑問を感じていたような気がするが。。。

なにしろ昔のことで忘れてしまった。どういう説明だったかな?
確認しておくか。
所謂『原仙』くらいしか、統語理解を構造モデルとして図示している参考書ってなかったかなと思う。広い意味での(言語論の)「文法」を提示していたのだろうと思う。


『英文標準問題精講』の方は、断捨離して、廃品回収に出していた。これは、あるとき、思い立って2冊目を購入したものを、断捨離したので、次に購入すると、3冊目になる。
『和英標準問題精講』なら、残っていた。まだ読んでいなかったので、思いとどまった次第である。

「分詞構文」から、「非制限用法」、「帰結文」と読み進めた。なるほど。

untilの意味合いが、帰結文を導いていることから、明瞭になった。

不思議なことではないが「無生物主語」も載っていて、命令文に関しては、これまた捨ててしまった別の参考書で見た、無生物主語を用いた構文を思い出した。

確か、「5分歩くと着くよ」だったと思うが、

 Five minutes' walk will take you to ~

https://eitangotsukaiwake.suntomi.com/index.php?take%20a%20walk%2C%20go%20for%20a%20walk

https://www.clearnotebooks.com/ja/questions/1366489

willを忘れていた。訂正した。
https://www.linguee.jp/%E8%8B%B1%E8%AA%9E-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E7%BF%BB%E8%A8%B3/it+takes+a+five+minute+walk.html

上で挙げた「別の参考書」を好んで使っていたのは、品詞の説明から十分なされていたからである。前置詞は名詞を準備する。だから、質問の趣旨としては、

  1. go for a walk
  2. go walking
  3. go to walk

を比較することで、理解を促す類(の質問)でないかと思うが、

https://www.applek.com/blog/trouble/goshopping

https://e-grammar.info/participle/go_ing.html

意外に面倒である。というのは、ここにも ”ing問題” が横たわっていて、「動名詞」なのか「現在分詞」なのか、迷うからである。

なお、https://ja.hinative.com/questions/1084609では、2を”technically grammatically incorrect”と言っている。

素人意見だが、私は、現在分詞が自然に感じられる。 

  • I go shopping
  • I am shopping

の比較である。「私」が「買い物」と実在上等しい存在ではない。アスペクトである。

stopだと、2と3の区別がわかりやすく、

https://www.english-speaking.jp/difference-between-stop-to-do-and-stop-doing/

そうすることで、同じく前置詞であっても、for と to の区別がわかりやすくなると思う。意図(for)と帰結(to)の違いである。
主語に係る時間、述語の属性としての(内在している)時間(アスペクト)に敏感になる。

 

さて、興味深いのは、「非制限用法」の方で、これが「アリス文」と比較できるからだ。

  1. My father ,who
  2. My father who

で、1が非制限用法で、2は制限用法だが、2は量化を伴っている。であるがゆえに、「存在」を「数え上げ」らえれることとしての「確率」が胚胎している。

ここで、再び、命令文に帰ってくることとなった。

 

英語と数学は論理を通じて、実は、「兄弟」だったということがこれでわかる。少なくとも、ライプニッツは、法学者であった。
ブールもドジソンもラッセルもチューリングもイギリス人だったのだ。平文で論理を考えられる利便性があった。

これは「英語は論理的(日本語は非論理的)」と言っているのではない。
なぜか、よく整理して理解されている、ということで、主張は「理解されている」にある。
すなわち、日本語は近代化された英語を横目に理解された節があって、「コピュラ」というのも、「である」と考えるのは ”is” を念頭に置くからだろう。
それは違和感が残るのであって、歴史的に見ても、〈は〉〈が〉の区別が合い相応しく、平文なら、晩年の芥川竜之介横溝正史くらいの違いである。
探偵小説というところが味噌で、複雑な文章を構成しやすいのだ。
日本語が、幸か不幸か、近代化ともに構成されたので、そういう理解の仕方をする習慣が、いまのところ根付いていないように見える。
井上毅あたりは随分と研究したようだが、限界もあったようだ。「シラス」「ウシハク」という述語へのこだわりがその限界である。井上の関心が「近代(国家)」にあったからである。井上は、基本的に、歴史法学者だったのである。「歴史法学」は近代法の研究を目的とする。


そして賭けと言えば、『カイジ』である。

スピンオフが14巻まで続いている。
なぜかは知らないは、『孤独のグルメ』的なグルメ漫画である。

社会から隔絶した地下の住人が、地上に出て、心理を読みあいながら「孤独じゃないグルメ」を、なぜか和気あいあいと楽しむ漫画である。


『原仙』のスピンオフで、レシピを解説するのは、おもしろい授業になるかもしれない。そりゃ、スピンオフではないか。