今日の国語

 

いや、これは、名は概念(実在)を著すというイデオロギーだから「変」に感じるだけであって、名はカウサ(着衣;法的拘束具)を著すと思えば、不自然でない。

背景にあるのは、中国語との分岐で、本居宣長の「あはれ」への流れが文化的感傷で理解されるべきことではなく、言語理解を伴った社会的事象であったと理解を広げたらよいのではないかと思う。

つまり、『壱人両名』は、戦前から続く「文学的理解」に棹差しているのではないか、と思った次第である。「論理学的理解」「法学的理解」ならまた別の諸相が見えそうだが、本文を読んでいないので何とも言えないが、所感である。

「近代化」とは「空間的」「技術的」「充足的」そして「計量的」だったのだ。
名が真実を著すとの感慨は「近代的」である。

『藪の中』で犯人捜しをするのはナンセンスである。むしろ、センス・オブ・ワンダーで語られる方がよい。

自分たちがどのようなイデオロギーの下に考えているかの省察が足りないように思った。

法は言葉に依存し、言葉は社会に依存する。
そもそも言葉が通じなかったのだ。