野上豊一郎とバーナード・ショー

そうか、芥川は、抑うつ症だったか。
3冊買ってくればよかったな。台湾カステラに目標を絞っていたから、目標までの工数を減らすために躊躇してしまった。
今から考えたら興味深い内容だったな。

借りてきた。これを読むために、

先日、本屋で勝ってきた。ネットでなぜか、安売りしていない。
解説の評価が高い。

それとは別に、工具史、ルネサンス建築史も、いずれ調べたい。
もう「デカルト座標」の元ネタは大工か石工の「丁張り」に狙いを定めた。

jun-bungaku.jp

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谷崎潤一郎は、『細雪』になって、はじめて心理学に関心を持ったのではなく、震災前の前期の「哲学的」と言われる谷崎においてもすでにそちらに向かっていたことがわかる。

残念なのは、これが谷崎個人に言及されていることで、文壇全般への心理主義の影響が顧みられないことだ。

谷崎は、前期で、「悪魔主義的」な、要は、心理学上の「変態」ではなく哲学的な「変態」を耽美主義として、後期は、「王朝的な」、要は、哲学上の美学ではなく(俗論)心理学的な(トピックを採り上げ)「美学」(に高めたもの)を耽美主義としていたのだろうが、そこには、与謝野晶子鈴木三重吉の言語への理解や取り組みが影響しただろうと思うのである。

そうすると、中島敦がなぜ、一見孤高の立場で、分析的な耽美主義を採ったかがわかるのである。つまり、決して、「孤高」ではなかったのだ。様々な言語への実験があったのである。それは論理主義が影響していると思うが、よくわからない。

芥川龍之介は、夏目漱石の文学理論からfを引いた論理主義へ向かったが、単に資質としてASD病質だったということもあったようだ。ヴィトゲンシュタインと同じように。

そういった戦前の経緯を振り返られないのは寂しいものだ。
むしろ「戦後」はきわめて特殊なのだ。

無料で読める分には、

  1. 一夫多妻
  2. 仏心

ということが出て来るが、よくわからないのが、「一夫多妻」である。
これは私の理解では、「乱婚」=「多夫多妻」の特殊形で、反対に「多夫多妻」が特殊形でもよいが、なぜか「一夫多妻」の対義語は「一夫一妻」であるか、せいぜい「多夫一妻」である。これがかねてより不思議であったが、

(現代作家論叢,片岡良一,三笠書房,昭和9)
現代作家論叢 - 国立国会図書館デジタルコレクション

片岡良一 - Wikipedia

「女性の理想化」ということらしい。
そうか、自分は(相対的に見て)どうも「女性の理想化」をしない質ならしい。
だから、「多夫多妻」に分類上の自然なものを感じるのだろう(実際の婚姻として自然と思っているわけではない。)。
本当だろうか?

本当のタブーは「多夫多妻」で、それが気づけないようには、なっているらしい。
谷崎の変態小説と軌を一にしているだろう。

里見弴に聞いてみたい。

 犬に仏心はありや

禅で謂う観念の排除が変態に向かうのは、やはり、「まごころ」の意味でアブノーマルを避けているからではないかと思った。もちろんそれも信心だが。つまり、自己規範がある。そういった意味で、里見はうそつきだろうと思う。そんなこと考えればすぐにわかるからだ。
※本来は、犬に仏性はあるかどうかを問うたのであるが、「犬に仏性〈が〉あるか」を問うたのではないから、可能な問いではなく、本性的な問いである。初期には「ある」とも答えたようだが、次第に「ない」に収れんしたようだ。そのとき「犬に仏心はあるか」と問うてみたいのである。「ない」としたら仏教は「人間(実証)学」だからである(世界哲学から移り変わった)。

要は、流行りものを書いていたに過ぎないだろうと思うのだ。
ならば流行りが過ぎれば顧みられなくなる。

その点、谷崎は、俗論とは言え「學」に棹差していて、普遍性に一部根差していた。
不思議な人である。


そんな谷崎が、自分には、バルテュスに重なって見える。
センセーショナルな画題が話題にのぼりやすいが、ピカソの評価がもっとも健全であるように思える。「巨匠」なのだ。つまり、古典から彼の時代の直近の(特に同郷のフランスの)先達まで、網羅した技術を持っているように思えるのだ。

彼のセンセーショナルなあの画は、自分には、カラバッジョの天使の翻案に思えるのである。天使は「男の子」であったから、「女の子」でやってみたいと思ったのではないだろうか。自分には、バルテュスの好んだ倒錯のモチーフが、ルネサンス的に思える。

 

床削り - Wikipedia

いずれもギュスターブ・カイユボットの画で、特に左が好きなのだが、ここにあるのは「骨格」である。
バルテュスがもうひとつ描きたかったのは、骨格であるように思えるのだ。しかも、それが美的であるためには、或る意味で奇妙でなければならない。
今なら「ナナオ(モデル)ポーズ」「ジョジョのポーズ」である。女性をモデルにしたために、この新規性があまり気づかれないとしたが残念である(とっくに気づいている人はいるみたい)
女性も男性と同じように、、、、、、、、、ふくよかでなくて好いのだ(ふくよかであっても好い)。

ジョジョ立ちの元ネタ18選☆画像付きで一覧紹介!│ジョジョ立ち講座/by KEN

ギュスターブ・クールベが居て、ギュスターブ・カイユボットが居て、バルテュスが居るが、バルテュスに「在る」のはそれだけではない。セザンヌもいるし、ほかにもいるだろう。まさに巨匠である。

「カメラができないこと」をやろうとした時代にあって、視点移動を復活させるルネサンスによって、表現しようとした人たちがいる。しかし、分析的にではなく、統合的にそれを成し遂げようとしたので、必然的に歪みが生じた。
それは、必ずしも数学的ではないが、観察者の主体性の導入であるので、近代的であるだろうと思う。またモンタージュ技法はどうしても心理的である。それを身体芸術で表現しようとしたことが、すなわち、かつてのマニエリスムが指向したようなデフォルメを、建築的(幾何的)な身体構造乃至身体の力学から再発見したことが現代的である。
「捩じり」「突っ張り」「遊ばせる」それはそのまま位置関係を指示するからダイナミックである(捩じれるためには、捩じれ位置がなければならない)。

マニエリスム | 現代美術用語辞典ver.2.0

www.artpedia.asia

老梅図襖 狩野山雪アメリカ・メトロポリタン美術館

crea.bunshun.jp


上はエゴイズムから、下は相対主義からであろうか。
なんのことはない「俗情に棹差す」程度のことであるが、「仏」と言っているが、要は、広範な人間性のことで、こちらは「俗論」というよりむしろ、であって、里見は近代人なのであるから、それはやはりエゴイズムなのだ。

多情仏心とは - コトバンク

バブルを未だに「よかったこと」と考える人たちがいて、

要は、派遣(契約)型(無店舗型)のフリーランスの素人風俗嬢なのだが(そこに「高級」を付けてもよいし、ケースによっては「ソフト」を付けてもよい。要は、間口が広い。※)、自称「職業 小悪魔」である。
※なお、こういう判断は、外形などから総合的には判断されるのであって、もっぱら心情から説明されるのではない。
「風俗」とはよくいったもので、社会のイメージが張り付く。
それを非難するつもりはないのだが(アッコちゃんのことも、林真理子のことも。)、そこに欺瞞があるのが鼻に付くのである。
それは正直なのではなく志向乃至嗜好ではないかと思えて、今気づいたが、性自認についても付きまとう言葉である。価値中立への指向性が、科学的であるか主体的であるかは本質的に意味合いが異なる。

里見は文学者なのである。
「好きだから好き」というが正直なのは言うまでもないが、内心にとどまらずに、主体性に根差して、主体を起点として社会的な行為を生むので、主体間の社会問題を生んで当たり前なのは、「好きだから好き」というのと同相である。
行為には対立利益が付随するので、正義の問題が付きまとう。
そして、それには原理的な不能問題としての「侵害」が措定されるのである。
それを主体に素朴に帰着させているだけで、本来は、主体間の問題である。
それを誠実とは普通は考えないのである。
つまり、ここで『正直』であったり、『誠実』であったりとは、「腹蔵ない」というやはり土着的な庶民の実践倫理に過ぎない。後は、「天下」であれ「自然」であれ、帰納的な説明がなされるだけである。
だから、『仏心』とは言っても、「こころ」が主眼であって、『まごころ』なのであるが、その「ま」は「人間」のことである。そういった意味では、ご多聞に漏れない時流小説であるが、上手いのは上手かったのであろう。

明治の中枢エリートが、実は、ポスト近世主義に立って、むしろ、土着の庶民哲学が最盛期を迎えたのであるが、徐々に、近代化が浸透するにつれ、一方で、社会不安もまして、それを受け止める表現がいろいろと生まれたようだ。
新しい科学に反発した世界的なオカルティズムの潮流に乗って、日本では新仏教が大きな役割を果たしたが、そうであるがゆえに、そこには、新しい科学の側であった統計心理学、実験心理学、或いは社会学などもそうであるかもしれないが、それとの折り合いの付け方に焦点が当たらざるを得ないのである。
そういった意味では、当然に近代小説であって、『仏心』などということも、その文脈で評価するのが『正直』だろうと思うのだ。

里見の胚胎した社会性は谷崎の胚胎した社会性と比較されるのが健全であると思う。
いわば、俗論心理学対土着心学である。「理(學)」の有無がそこにある。
その点で、谷崎に分があると思うのだ。
そして、そんなことは、正直に考えれば、普通にわかったであろうことである。

エゴイズム【egoism】 の解説

  1.  自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式。利己主義。
  2.  哲学で、自我だけが確実に存在し、他は一切認識不能であるとする説。唯我 (ゆいが) 論。独我論

egoism(エゴイズム)の意味 - goo国語辞書

能を通じて里見は「人間」に、不能を通じて谷崎は「世間」へ近づく。
しかし、片岡良一は解説する。

これは「太陽主義(大正生命主義」)と言ってよいのではないかと思う。
そして、不良少年を愛好する。その姿勢は、後の、太宰ら無頼派や、石原に受け継がれてゆくのだろうと思う。
そう考えると、里見の志賀直哉との確執も、立体的に思えるのである。

ところで、『ドンホアン的生活』から『身に迫る運命の恐ろしさを紛らそうとするための逃避』への繋がりに関しては

ドン・ファン - Wikipedia
結婚論 - 国立国会図書館デジタルコレクション
国立国会図書館デジタルコレクション - 検索結果
ジョージ・バーナード・ショー - Wikipedia

バーナード・ショーだろうか。

結婚論 - 国立国会図書館デジタルコレクション

多夫、多妻についても言及している。一夫、一妻による独占を当然としているから、意味が不明である。およそ科学的でも、実証的でもない。

ジョージ・バーナード・ショー - Wikipedia

ちっとも真実なところがなく―皆んな心のどん底まで嘘つきなのである。

P209,結婚論,バーナード・ショオ著,野上豊一郎訳,新潮社,大正6

そして、こう結ぶ。

地獄は漂流で、天国は航海である。

P211,同上

残念ながら多夫多妻を説明できていないので、意味をなさない。

野上豊一郎 - Wikipedia

なお、野上も漱石門下だったらしい。