どのような法も法である

西洋女性の読書に見るロマンチックラブの一考察

https://acaddb.com/articles/articles/17384255

面白かったし、考えさせられた。

源氏物語の読者は、当時、女性ですか?、男性も想定されていたのですか?男性も... - Yahoo!知恵袋

 

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ゾラは自然主義で、それは科学的であったと考えるべきなのかどうか。

論理実証主義で、その「自然」は、物理学以上に、ウチの質も決めていたのではなかったか。つまり、人格の決めていたのではなかったか。

そのとき、事実を取り上げ、評価を「科学」から援用して猶、その表現はイデオロギーを生んでいなかったか。
すなわち、「それを信じる自己」を、原因たる事実とその科学的了解※との後に書かれた小説の、その後に、読者をして生み出してこなかったか。
論理実証主義にとって本質的に重要な特質であるが、優生学がどの程度信じられる学問かどうかは脇に置いて考えてよい。

それがリアルだったから驚愕したのではない。リアルに感じる自己を選択してから驚愕したのかもしれない。
これが「論理主義」文学の危険負担の仕方である。主体はテキストのソトに置かれる。
このとき、「どのような文学(法)も文学(法)である」。

 

さて、DHMOを、【アンセルムス=ゲーデルのテーゼ】に沿って、「文学」してみる。