2021年9月 「ビジネスパーソンのためのアート」本の流行と,教育的に注意すべきこと 人間生活文化研究

かなり自由な解釈にも読めて、意味不明な文章である。

例えば、3.1 対話型鑑賞教育の効用での指摘は、ロールシャッハテストを出しているが、もちろんこれは心理学のテストであるから、知能テストもそうであるが、検査員の立ち合いもと厳格に行われなければ、その意義が認められないのではないか。

つまり、この著者自身が、心理学に対しては「遊び」程度の認識しかなく、相当自由な解釈を施しているのだ。さしづめ「心理学のビジネス入門」である。

反対に謂うと、「自由連想法」ということはあって、「自由」に解釈する意義も認められる(ビジネスに直接役に立つかは知らない)。

これは、大正時代に出版業界がにぎわったのと同じで、「俗論」なのだ。ただ、「俗論」と「俗説」は違う。正しい知識を日常的な話題に落とし込むのが「俗論」で、そこから間違った理解を導き解説するのが「俗説」だ。「俗説」になっている点を指摘すればよいだけである。

 

 

全編にわたってこの調子で、何か不満を表明しているのだろうが、基礎的な知識がないのか、不誠実なのか、よくわからない。

「価値語」とおもむろに出してくるのだが、この著者の造語なのか、学術上の用語なのかが不明で、かなり「自由な読み」を暗に強要してくる。

これが、この著者自身も後で(なぜか)使用する、「態度」ならば、サーストンの統計心理学の用語を想定して、そういう筋として読めるが、かなり内容が曖昧である。

即ち、全編にわたって、「お前が言うか」ということになっている。

 

No.109 西村賢太「雨滴は続く」(文學界 2017年01月号) | 総合文学ウェブ情報誌 文学金魚 ― 小説・詩・批評・短歌・俳句・音楽・美術・骨董・古典・演劇・映画・TV

れを読むと、志賀直哉は、『城崎にて』で生死は両極端であると思っていたが「違った」と述べて、それらがアマルガムな何かであることをアリストテレスの三段論法を使って述べるのだが、それがそのまま三段論法の本質的な説明になっている。

ここらへんが志賀たる所以で、芥川龍之介が羨んだ点ではないかと想像するがアルゴリズム(手順)ではなく、意味を説明するのだ。

芥川龍之介が、このセンスに於いて、志賀直哉に劣っていたと思えない。現に『羅生門』では、アスペクトとして成立させて、むしろ志賀よりも成功しているのだ。アマルガムな何かはそこでは躍動的な何かでシンボリックに表現することができた。一方、『藪の中』では、失敗した。別の言い方をすると、二人譚(称)では成功したが、三人譚(称)では失敗したのだ。造形的な「キャラクター」を一般化することに失敗したということだ。彼に「もうひとつ」何かが欠けていたのは間違いがないように思う。
それは社会性であると思う。
『藪の中』で犯人捜しをするのはナンセンスであるが、反対に犯人捜しをする社会推理の筋を書けば、芥川は長編もものにできたと思う。そのためにはそれぞれの「証言」では「物量」が足りないのだ。「(往復)書簡」が望ましい。
ここらへんが太宰治と違って、平気で他人のものをパクることができない。いや、『藪の中』にも元となった作品はあるようだが、まるまるパクッて細部を変える―細部の意匠にオリジナリティーがあると装う大胆さは期待できない。
夏目漱石の弟子にあって、論理主義に一番近かったせいか、科学性、ここでは、構造への理解を示して満足する質でなかったか。
他方、太宰は端的にクズだったのだ。そのクズっぷりが人を引き寄せるのだから、質が悪い。
そう考えると、西村賢太も「クズっぷり」をひとつの「売り」にしていたが、特殊な生い立ちであっても、生得的な偏りが太宰ほどではなかったのだろう。
両人とも早い死であったが、西村賢太は、無茶な生活が「自殺的」であっても自殺でない。惜しまれる死であるが、太宰は、「本当に死ぬ気だったのか?」怪しい自殺である。何を言ったところで元来が口説を弄するクズなのであるから、そのまま信じられない。単にごまかしの効かない相手を選んでしまって窮しただけではないかと思えてくる。勘違いして欲しくないのは「死にたい気持ち」は真実であったと思う。しかし、多分に、言い訳がましく移ろいやすいのだ。言い訳できるうちは「結果として」死ななかったと思う(虚言でないのだが、この「結果」と動機の乖離が特徴である。「結果」の受容が極めて柔軟なのである。それを普通はクズと謂う)。

ハーバード大学に受け継がれた)ソクラテスの「科学」(ソクラテス・メソッド)の中心にある概念であって、これがアメリカを席巻したのは、社会の拡大により、文献主義が追い付かなくなったことが背景にあったからだ(イェール大学の追随を余儀なくさせた)。「科学的」とは、自然な、、、内在規範の表現力を以て、長い観察を経なくても「わかる」ということである。
すなわち、「実証化」のことである(「抽象化」のことではない)。このようなアメリカでクリスティーン・ラッド=フランクリンはアリストテレスの論理学を完成された。日本の場合、仏教がそれを担った(体系化という意味で。感慨程度なら、それ以前にもあったと思う)。

西村賢太は、

根が異常に自己評価の高い質ながら、一方の根はクールなリアリストにできている

『雨滴は続く』第一回

ここらへんは、志賀直哉を想起させる。決して藤澤清造一辺倒でない、なくなっている西村のしぶとさが見える。
これをどう調和させてゆくのか(しないのか)がテーマになると思うが、三段論法だとそれこそ志賀直哉であるし、自己言及だと藤澤清造であるが、どうだろう、『墨東奇譚』を目指したのであるから、ジェネラリストの永井荷風の影響を受けて、何かしらの自然観を出してくるのではないかと思う。

 

1915年、ヒルベルトはネーターを教授にすべく活動したが、当時は女性差別の時代であり困難を極めた。難色を示す教授陣にヒルベルトは業を煮やし、「これは大学の問題であって銭湯の問題ではない」と激怒した

エミー・ネーター - Wikipedia

それでも、

ネーターは一年後(引用者注1923年) Lehrbeauftragte für Algebra の特別職に任命されるまで講義の給与を支払われなかった

エミー・ネーターの40年前に生まれたクリスティーン=ラッド・フランクリンは

The university eventually officially awarded her a PhD during its 50th-anniversary celebrations in 1926[9] (44 years after she had earned it) when she was seventy-eight.

Christine Ladd-Franklin - Wikipedia

44年待ったのである。
ヒルベルトの「お手伝い」として無給の奉仕から大学での講義を始めたエミーネーターであったが、1900年の野口英世ペンシルベニア大学で無給の「助手」でなかったかと思う。彼は無給を嘆くよりも成功のきっかけにかけていたらしい(アメリカはよく留学生を受け入れていたが、規模が拡大する現場に在って、常に人手不足と資金不足であったらしい。成功を約束しないで、「報酬」の支払い義務を免除される留学生を受け入れるのは、経営合理的だったらしい―軽作業に従事した「賃金」が支払われる場合はある。野口は他の留学生との競争条件から固辞するスタンスだったらしい。ここらへんはレギュラーの定着しないプロスポーツ選手のような話で、さすがに無給はありえないと思うが、現場に出ないことには成果も出ないのであった)。真摯なのか無謀なのか、「無給でいいから」というスタンスであったが、これには鵜呑みにできな背景があって、とにかく社会性の破綻した人物で、パトロンを数人食いつぶした「大人タイジン」である。

「博士号」第1号も不思議なハナシだったが、なにやら怪しい時代であった。