markovproperty.hatenadiary.com

英語はやり過ぎるときりがなくなって、ing と分詞構文を中心に覗いてみたけれど、

日本語で言う「主述のねじれ」が分詞構文で起こる様を「破格」のひとつとして説明している。
この「主述のねじれ」は、分詞構文であるから、原則、従属文の主語は省略されないところ、省略されていることから指摘されることである。つまり、従属文の主語が、主文と主語と異なっているにも関わらず省略され、原則通りに読むと、奇妙な訳になるというものであるから、隠れた(ねじれた)主語を補って理解する必要があるらしい。
「破格」概念の面白いところは、「主述のねじれ」のように、一概に「文法上の誤り」とせずに、「許容できる」としているところだ(だから、「破格」として、どの程度許容できるかが問題となる)。

現在進行形の3様態。そういう言い方ではないが「現時」「継時(区間)」「解除(区間)」。最後の「解除(区間)」は、わかりにくいが、なぜ進行形で近時の将来について言及できるのか、ということであり、或る意味で、「継時(区間)」の対を為している。I am comingをどう訳すかであり、終算時からの逆算である。日本語だと、「来る」ではなく、「行く」となる。発話行為上の「今、来た」を終算時として、その直前までの区間なので、”coming”となるようだ。

ちょうど今駅に着いたところだよ。 とはどういう意味ですか?|HiNative

そうすると、”I am coming”と言っている電話相手が目の前にいると、ちょっとしたジョークかドラマになる。

進行形を「中間」「時間幅」として説明し、例文を挙げTmrdosit の2項比較(<,=,>)を示している。Tはtiming、mはmatrix、Tr が進行形アスペクトのtimingを表すことはわかったが、sit は sittuation だろうか。
「時間幅」で考える時、それは境界を除いた間のことであることが、明確に説明されていた。
ただし、「中間」は推意とし、進行形自体にその意味はない。

Implicature - Wikipedia

「推意」とは、文章から理解される「表意」と区別されることで、語用から推測される意味であるらしい。
つまり、「中間」と受け止めるということのようだ。
これは「時間幅」と関連していて、例文で示されるところ、when~,I was refering のように「中間」には消除される場合があり、例文では「時間幅」が when で限りなく小さくなるために「中間」が消除されている。
そういう理解ならば、すなわち、「中間」は「時間幅」の二次的な理解となるのではないかと思う。
なぜ、私がこう考えるかと言うと、「平均」との違いを意識するからだ。

  1. a : a single value (such as a mean, mode, or median) that summarizes or represents the general significance of a set of unequal values
    b : MEAN sense 1b
  2. a : an estimation of or approximation to an arithmetic mean 
    b : a level (as of intelligence) typical of a group, class, or series above the average 
  3. : a ratio expressing the average performance especially of an athletic team or an athlete computed according to the number of opportunities for successful performance

average | MERRIAM-WEBSTER'S UNABRIDGED DICTIONARY

averageは「平均値」「中央値」「最頻値」を含んで、そのうち、「平均値」をmeanと呼ぶ、或いは、算術平均と典型的な水準、割合と言った意味あいで、mean を「平均値」と呼ぶ場合には、average を「代表値」と呼ぶらしい。

typical | 語源英和辞典
stew | 語源英和辞典

typicalの原義である stew は切り株を派生語に持つ。理性と結びつく「木」の関連語で、呈示されることのようだ。study も派生語である。要は、typical は範(車の模型など、枠組を示された手本)、疇(畝など、枚挙できる同じ類)、痕(傷跡など、確認できるしるし)から成る「型」の形容詞であるようだ。なるほど切り株には年輪がある。

 ここで「中間」とは、このような average のニュアンスを持っているように感じられたが、現在進行形を

モダリティ - Wikipedia 

から説明するときに、時間に関するある規範に従っているために、「中間」と呼んでいるらしい。これは訳語の問題なのか、原著者の認識なのかが、興味深い点だ。
なぜなら、「傾向」といった内在的な資質で理解すると、「距離」的な時間の流れはより抽象化できるのではないかと思えるからだ☟。

現在進行形は、「傾向」の「連続」であって、必ずしも「中間」という具体性を必要としなくなる。そう、「中間」とは、具体性に富んでいるのである。その根拠が「時間幅」となっている説明である。
「傾向」と理解したとき、「中間」が「時間幅」の二次形式(比較)だったのに対して、「時間幅」が「傾向」の二次形式(具体化)となる。
要は「そうではない」ということであるようだ。
つまり、モダリティを排除したのが数学であるが、モダリティで表現されるのが「英語」である。日常的なコミュニケーションで、そこまで抽象化する必要はないし、なにしろ反対に不便だ。基本的にコミュニケーションなのだ。

このシリーズでは、統語論に基数「0」を与えている。そのような指向性のもとに編集されていると考えてよいだろうか。

別の観点から。teric/atericについて、Twistin' the Night Away(written by Ray Jackendoff ,JSTOR)から

time away constructionはtelicだと書かれている

time away constructionについて | 英語の勉強メモ

for句はatelic(終点がないこと)であることを要求する。

time away constructionについて | 英語の勉強メモ

”Jean Nicod Lectures”シリーズの2冊目。次は、トマセロの著書である。

『原仙』の著者原仙作氏の意図がどこにあったかうかがい知れないが、『原仙』の延長にケンブリッジのこの本が「ある」と考えられる。原の統語論から文法を概括する企図は、誰も試みていなかったとは言え、突拍子もない、独特のアイデアではなかったようだ。「大学受験」が目的ではなく、あくまでそれを目標としている点が、『原仙』の際だった特徴かもしれない。
だから、いまだに読みたくなるんだなぁ。捨てなければよかった。

気になる項目があったので、1円で(再び)購入。
あと、これらの4冊は、図書館で一度吟味してから考える。

 

レシピはどうでしょう?


数学屋のメガネ  数理論理学を勉強してきました。そのメガネで世界を眺めてみたいと思います。

随分前になるが、『数学屋のメガネ』さんのブログをよく見ていた時に、確かブルバギに触れてでてきた話題だったと思うが、「距離(空間)」の抽象化に関して、開集合から開集合へ写ることを以て「連続」と理解することが難しく、閉集合から閉集合へ写ることが自然に感じられ、勉強課題であるよしを語られていたように記憶している。
ずっと頭にひかかっていた。
これは「抽象的なことを具体的に理解するか」「抽象的なことを抽象的に理解するか」が背景にある。
要は、開/閉を取り上げているが、実のところ、抽象/具象のことだと思われ、

西欧数学史上初めて、(1ではなく、すなわち「量」ではなく)0を基数としたシモン・ステヴィンの慧眼に根ざして(「数」の誕生)、無限と関係しているように思う。
無限を示す方法は(具体的に)「ある」が、その方法自体が「無限」であるわけではなく、その方法によって指示される元となる(抽象的な)何かが「無限」である。
ここで、「数」とは、対象に対する付番(代表;比喩)のことである。「比喩」というと奇異に感じられるが、要は、対象群(それ自身の集まり)と象徴群は別(の体系;語彙)に「ある」という飛躍のことである。

似たような考え方なのか知らないが、「無次元量」と謂ったこともある。

同じ種類の2つの量の比として定義される量は無次元量である[5]。例えば傾きは水平距離に対する鉛直距離の比である。つまり「長さ」という同種の量の比として定義される無次元量である。より複雑な例として、変形の尺度であるひずみは、変形前の長さに対する長さの変化の比として定義される無次元量である。

無次元量 - Wikipedia

親切なことに、私のような無学者用に『「0次元」とは異なります。』との注意書きがある。

空間の任意の点がその位相に関して開かつ閉な近傍からなる基本近傍系を持つことをいう。

0次元 - Wikipedia

この注意書きをこそ、求めていた。
すなわち、「中間」と呼ぶとき、どうも「比」の方がイメージされるのだが、もう少し抽象的な方をイメージしていたのだ。

現在進行形のコアのイメージはこの開(放)性にあって、直近までの「平均」的な「代表」なのだが、その「代表」が、その「運動」を象徴しているの(マーカー)に過ぎない、といったイメージだったのだ。
ケンブリッジの説明では、そうなっていないようだ(前書きで、翻訳の苦労が語られている)。

それはそうだろう。「英語」は数学ではないのだ。
しかし、なだらかに繋がっている。

 

2つの例文比較

  1. 『Z-KAI 英語長文のテオリア 英文法で迫る英文読解演習』 
    1. saw him cross
    2. saw him crossing
  2. 『「英文法大辞典シリーズ」第1巻 動詞と非定型節,そして動詞を欠いた節』
    (以下、『ケンブリッジ』) 
    1. caught  him crossing
    2. [r-word] him 

1-1が動作の着手から終了までの一部始終を見ていたのに対し、2-2はその最中を見たに過ぎないらしい。

2-1が「彼」を目撃したのに対し、2-2は動詞以下で構成される「状況(全体)」を[r-word]したらしい。これは統語論上の問題である。肝心の動詞を忘れてしまった。

指示語の学習指導 : 志賀直哉「城の崎にて」全指示語

と比較できる。
[r-word] が it を目的語にした場合のこの国語の指導との違いである。

 

すなわち、英文と日本文が同じ内容かもしれない、、、、、、文をそれぞれ構成しても、統語上の制約を受けるかもしれない、ということである。
これが「志賀直哉」というところが味噌で、日本語廃止論をぶって、日本語は「不完全で不便」だと言ったのだ。

志賀直哉の日本語廃止論をめぐって | 翻訳論その他

これは、使用の側の問題以上に、「忘れてしまった文法」が「ある」と思う。
コピュラに関する〈は〉と〈が〉だ。

 

(本)
この本では、中学生のころ”is”に帰着させていた、著者による〈は〉への勘違いを語順で捉え直して、”king”の古期英語”cyng”の格変化を参照しつつ、もともと(語の)屈折が持っていた「主格」が衰退したことを以て、まるで英語からは〈は〉が言及されなくなったかのように、説明している。
何を言っているかこの文でまるでわからないことから察せられるように、なにかがおかしい。
要は、I am 13 years old に訳語を置いてみると、「私」「である」「13歳」で〈は〉が出てこないが、主格ならば「私は」と置かれていた、、、、、、と説明している(が衰退したので〈は〉が今では置かれない、、、、、)。すなわち、屈折を指示する文字(マーカー)を(そこに)置くのではなく、語それ自体を(マーカーとして)「置く」ことで解決したということである。
しかし、それは「主語」の説明であって、〈は〉の説明ではない
それで〈が〉が説明できるだろうか、疑問である。
要は、これは英語の文法の「解釈」を(日本語で)施しているのである
つまり、日本人自身に、〈は〉と〈が〉の区別がうまくつかないために、英語で理解しているのだ。英語をで理解した〈は〉を以て、英語を理解していることになる。
そういう倒錯が随所で起きるのが、日本語文法の一部でないかと思う。
しかし、日本語文法が構成された明治期には、つまり、井上毅はそのように理解していただろうか、と思うのである。
私は、やはり”is”でよいと思うが、それは「である」ではない。デカルト(実在、名辞)的な意味での”=”だ。1足す1は2の「は」である。ここで「である」などは出てこない。それが自然だからだ。〈が〉はどこに出てくるのか、というと、数学は便利で、「恒等式」と「方程式」がある。

恒等式の解き方|高校生/数学 | 家庭教師のアルファ

同じ”=”ではないのだ。
もちろん、「英語」と数学はまったく同じでないが、語順で説明できないことで、is は普遍的事実を説明できる。
語順は(「主格」から導かれる)「主語」の説明であって、〈は〉の説明となっていないのだ。おそらく〈が〉を忘れているか、そもそも英語の特徴を言いたいがために余計な説明を足しただけか、そもそもこの著者自身にうまく区別がついていないのだろうと思う。

例えば、小谷野さんである。いや、小谷野さん自身ではないが。

  1. さびしさは鳴る(綿矢りさ蹴りたい背中』)
  2. 推しが燃えた(宇佐見りん『推し、燃ゆ』)

ここに、

  1. 鈴は鳴る
  2. さびしが鳴った

を加えてみる。
簡単にいうと、綿矢の文は、三段論法が成立する。

  1. さびしさは鳴る
  2. 私はさびしい
  3. 私の中で寂しさが鳴る

小谷野さんはこのようなことが嫌いなのではないかと思う。
彼は、前期近代主義者なので、〈私〉が最上位でないと気が済まない。
この場合、比較対象と成る2文の語順で、〈は〉であることの説明はつかない。
なぜ、こうなるかと云うと、主語は述語に従属する説明要素なのであって、従属しないのは主体の方だからである。主体と主語の区別が十分でないのだ。
そして、述語が〈自由〉か〈束縛〉なのかは、文脈に依存する。そして、文脈のマーカーとして指示語などがある
指示語だけでないのは、例えば、関係代名詞の非制限用法に在るカンマも(まさに読まれることのない)マーカーとしての役割を果たしているからだ。
このマーカーは、まさに、、、量化を施していて、(述語論理さながら)主語が述語の説明要素であることを示している。

ケンブリッジ』では、現在進行形に先立つ is を「助動詞」と説明しているのにも、すこし驚いた。そういう説明を見たことがなかった(か、すっかり忘れてしまった)からだ。