これは簡単。

ゆとり教育」と関係がある。

ゆとり教育」は「学力低下」のキャンペーンが張られたけれど、実はそうではなく、或るコミュニケーションの在り方を基礎とした社会の変化を企図したものだったから。

「或るコミュニケーション」の主体性に着目すると、或いは「学力」を帰結するし、「社会変化」に着目すると、或いは「格差社会」を帰結する類の論法を採ったわけだ。

だから、焦点が雲散した。

「アクティブ・ラーニング」は実はその「変化」前にあった在り方に代替される(「変化」後の)在り方を名付けたもの。

すなわち、或るコミュニケーションの在り方を基礎とした来るべき社会でいうところの、「或るコミュニケーション」のこと。

塾はそんなことが目的ではないから。
学校は、社会の再生産が目的だから。
塾は、その社会で選択できる技術を提供するだけだから。
どちらが「上等」とか「偉い」とかじゃないんだよ?
塾は、制限が明確だから、(技術が)高度化するメリットがある。

 

だから、「ゆとり教育」ってポジション問わず、上の世代からものすごいクレームがついたんだね。「聴いてないよ」或いは「知らねえよ」ってこと。「昭和」って、そういう上下関係と懐具合には、ものすごくうるせえんだよ。
今DXでしょ。
「人間」を離れて「機械」の話にすると、落ちつくというか、デジタル格差も言われるけれど、迫力に乏しい。「ゆとり教育」批判ってそれくらい異常だったということ。
DXだって、社会変化は目前ですよ、ってお知らせしているんですよ?

当時はまだ日常の生活では必要性を感じない近代的な「時間」の概念や「時刻」を知るための「時計」を 子どもたちに知識教授することは、教師にとっても相当困難であったこと が予想される。他方では、修身教育において時間厳守と規則正しい生活の 挙行という「時刻」と「時間」をめぐる道徳的陶冶もなされることとなった。

P.328 近代学校教育史の所産としての「子どもの時間」に関する一考察

明治11年に堺(大阪)において教師の間で時計の購入が流行した11という史実は、彼らが時間管理の必要性の認識に至ったことを物語っている。

11)P.78 近代子ども史年表 1868-1926 明治・大正編

「道徳」と短絡できないのは、近代社会にとって、時間管理で行動を「同期」することが不必要でないことからわかるよね。

そういうことに、比較的近いかな。
ただ、フレーバーは、大正新教育か、欧米の教育っぽい。