中心点から考え始める子、中心線から考え始める子ーアクティブ・ラーニング

典型的な短絡だけれど、よくある指摘で、「改善点」が明確に求められるところ
(FAQにまとめるべき)
ようは、個々が「アクティブ」になっておらず、教室を分割してミニ教員を配置している(実は)旧来の教授法。この方法では、ミニ教諭になった児童は教えることによって理解が深まり、教師一人では行き届かなかった授業の理解が不足している児童をキャッチアップさせることが期待される。
教師に「アクティブラーニング」の理解が薄い場合に該当すると考えられる。
ただ、まだ制度の施行される前或いは端緒であるし、こういったことの対策が研究され改善されてゆくことが望まれる。児童が常に「完パケ」を求めることは仕方がない話だが、実際にはこのようなことーただ、あくまで「旧来法」であるため、”「アクティブラーニング」の施行によって”徒に不利益の受忍を抑圧されているわけではない。この教室では、「アクティブラーニング」を止めたとしても、所詮児童の利益は変わらないこと想像される。そのような(旧来的な)指導法だからである。

あと若干「授業法」について。
ゆっくり考える子にとっては、教師の指導もときに「過干渉」であって、時間制限が対立する問題なのではないか。アクティブラーニングで本来考えられる問題とは、別問題だろうと思う。そういうときは、時間の幅を大きくとる授業法を採ればよいのであって、「まずは自分で考えてみて、次の授業にみんなで考えてみよう」でよいのではないか?と思う。
これは教師による「教室把握」(のレベル)の問題ではないだろうか。

 

ただ、思うのは、「アクティブラーニング」はこのような事態を招きやすいので、同時に「モラルハラスメント」も学ぶべきだろう、ということ。
これを機会に「個(個々)を尊重する」態度を身につけるべきだろう。
「説得するツール」とするのではなく、「理解する手続きを十分に踏まえること」であるがゆえに「相手を尊重するツール」となり得ることを「発見」させることー他者の知見を言語化し共有する手続きを支援するため方法論であることを理解させる必要がある。他者を「潰す」ためではなく、他者を「支援」するために「言語(された共有できる手続き)が必要」であって、他者のアイデアをどうフォーマット化できるかを考えるのが「アクティブラーニング」の本旨。
わかりやすく言うと、「あなたの言うことって、こう考えれば、カタチになるよね」って、「あなたのアイデアって、こうすれば、発展させられるよね」ってことを導くこと。「出来る子」に求められていることは、そういった理解の「深堀」ー教師の「代弁」ではなく。

 そう考えると、👇の問題は、実は良問。なぜなら、教師が用意した「正解」以外の正答が認められるから。
(中心点ではなく)中心線から考えている児童がいたら、「ここ三分割にしてみればいいじゃない?」という付加的なアイデアが出てきたら、成功ではないだろうか。
こういう問題をこそ、どんどんやらせるべき。
いつでもそうだが、問題設定が大事(問題に含意される「問題」の問題)。
指導法で言うならば、アクティブラーニングでは、(問題が指摘されやすい)チュートリアル式(誘導式)問題(設定、尋問)を如何に克服するかが求められているとも言える。
つまり、古くて新しい問題ー常に在る問題。

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 そう考えると、実は、この本の背景にある、ソレを受け入れる社会状況がすごく怖くて、「あ、そんなことスラできない子たちがいるんだ。それが問題だ」と短絡してしまっては見えなくなることがあるのであって、それを克服するためにこそアイデアが存在するべきで、そのアイデアをブリッジするためにこそロジックが必要で、そのための「アクティブラーニング」だということ。
そして、ソレこそが、これから克服すべき旧来型の思考様式なんだということ。

もう少し背景を言えば、今までは「授業研究」が主だったけれど、それ以上に「問題研究」が重要になってくるだろうということ。
ボクはこの問題には興味があって、未就学児※に一斉に2問※与えてみて、どのようなアイデアに何人が透徹できたかを統計とてみればいいと思う。
※すなわち、円が中心からの同距離にある点の集合であることを教わる以前の子たち
※まずは、同じ問題を。中心かた考えた子たいには、「中心はどこかわかりません」と付して同じ問題を、そうではない子たちには(中心点を明示し)「中心点はここです」と指示したうえで同じ問題を解かせてみる。
そのときに、「学習効果」を排除した、その子本来或いは人間本来の認知能力を覗う(あまりに多くのことが「最初からわかっている」と錯覚されていると思う。数学の長い歴史を見ると、人間の認知能力の意外なほどの拙さがよくわかる。こんなことがわかるのに、こんなにも長い時間が必要だったのか、ということの連続)。