「「フレーム問題」は解決済み」という問題意識を持つのは誰か

数学は言葉なのか、ということである。

「論理」と「文学」ではなく、「論理」と「文法」でないかと思う。

もちろん、日本語が、なんでも説明できる。
数学も説明できる。
しかし、それで数学が理解できるわけでない。
そのことをごまかしているんです。

反対に「二項対立的」に理解を促した方がよい。
何が違うのか。
数学も言葉なのです。もちろん数学の教科書は日本語で書かれています。
でも国語で数学は学べない。

嘘をつくのを止めるだけですよ。


来年のオリンピックまで続けるのを目標にぼちぼちフランス語の遊びを続けてられたらと希望を持っている(ものぐさなので続ける自身はない)。

そのとき、英語のingを理解するのに役立ったこともあるが、「論理」を意識した方がわかりやすいことに気づいた(そもそも、発端が、夏目漱石がなぜシェークスピアを理解できなかったを考える際に、チャールズ・ドジソン、ジョージ・ブールの隠れた功績の勉強から)。

『フランシス・ソヴァ―ル』は、記号が増えて、幾何的に感じる。
そういったグラデーションがある中で、それを超越できる「論理」は、指針を与えてくれる。「文法」の範疇に納まらないことです。

歴史的には、フレーゲフッサールの方向性の違いに、「論理」と「心理」の分別がありましたが、いずれにしても、どう「文法」たる文化を克服するかの方法論です。

「文法」はローカルな文化に過ぎないんです。
それが「悪い」わけではありませんが、自ずと「自己」を巻き込むから、解決になりません。方法論的に「変える」必要があるのです。

曖昧になっているのは、本当は「文法」に過ぎないことを「論理」と嘯いているからです。「文法」はいわば方言に過ぎませんが、「論理」に依ってそれが「方言」であるとわかる、ことが大事だと思います。このとき、田舎者には、自分がどの程度の方言でしゃべっているかなんてわかりませんよ。

 

フレーム問題は解決済み -フレーム問題に見る、AI史の闇-

ふーん。
僕は、これは、本質的には自己言及問題の疑似問題だと思った。

つまり、ここで求められたのは、「人間」(のデザイン)ではなく、「万能の天才」(のデザイン)で、何にが両者で違うかと言うと、「無限の時間を持ちうるか」であると思う。「天才」はただの結果論(乃至ファンタジー)で、したがって、これは帰納的な誤謬である。

実は、「人間」は「無限の時間」を持ちうる。
ただし、「個人」ではない。

ロボットが壊れることを心配するが、人間も数えきれないほど、いつからか覚えていられないほど昔から、死んできている。
しかし、「人間」は現に生きている。

  1. 目的の選択(一次化)
  2. 目的関数の選択(二次化)

に加え

  1. 主語の選択

がそれを可能にした。つまり、犠牲が居ても、人間は平気なのである。
だから、これは、疑似問題である。
「利己心」と「利他心」をコミュニケーションで調整して人類を生かしてきたのだ。
理性的に生きて来たのではない。コミュカティブに生きて来ただけである。
だから、人間は、人類の滅亡を恐れる。

このとき、情報技術は、物理制約をより小さくでき、それほど死ななくてもよいだろうということである。

麻布中学「ドラえもん問題」の真相 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

だから、こういう問題が成立するのです。

この人が興味があるのは「問題」じゃなく「技術」だから、こういう答え方になるわけ。フレーゲたちが馬鹿馬鹿しい、、、、、、と思いながらも人生を賭けたのは、足し算が「できる」かどうかではない。足し算が「できる」とはどういうことか(何が保証されていることか)である。

」である。