いや、これは宗教的です。フランスにおける「ブルカ」の議論に近づくと思います。

多くのイスラム教徒ほど信心深くないわたしたちが、なぜ、彼らと比べてそん色ないような「宗教的行為」を行うかというと、医療は原則的に技術であって、純粋な科学的思惟ではないからだろうと思います。

すなわち、「純粋な科学」を考える時、マスクの場合力学ならば、4つの力を考えなければなりません。そのうちの「弱い力」は、数グラムのヤモリが垂直な壁を登れる程度には大きな力です。

医者は、そのような「純粋な科学」なんてことは、まったく考えないのだろうと思います(趣味として考える人はいるでしょう)。そういった意味で、医療は、極めて社会的です。

或いは、「ムペンバ効果」を説明するときに、冷蔵庫の性能から考える以上に、「純粋な科学」から考えることができるのは、例えば、このような研究者たちなのです。

「熱い物体が冷却されるためにはまず、ぬるくならねばならない」という直感的な常識が、現実世界の「むらのある冷却」においては必ずしも当てはまらないことを発見しました。

お湯が冷水よりも早く凍る「ムペンバ効果」のナゾが解明される!|ナゾロジー

しかし、私のようなまったくの素人にしてみれば、

研究内容はカナダ、サイモンフレイザー大学のアビナッシュ・クマール氏らによってまとめられ、8月5日に世界で最も権威ある学術雑誌「Nature」に掲載されました。

は、態度決定に資する権威に過ぎません。
このとき、それが正しい判断をもたらしているとは限りません。科学のことは科学者に聞かなければわかりませんが、聞いたところで、科学が学問で在りしたがって独立の体系で構成される以上、このような態度決定しか、できません。
ですから、「ムペンバ効果の応用は革命を起こす」との(私から見て)他者による或る評価に接するにあたっては、「留保」を付するのが穏当な態度です。
私たちは社会人なのです。
すなわち、私たち、、、は、構造に関して「妥当」、意味に関して「健全」、社会態度に関して「穏当」と3つの軸で行動を決定しているのです(私個人の行動決定はそれだけではありません)。
「ムベンパ効果」に対して、早稲田大学理工学部大槻教授は、長くそれを否定してきました。私たちは、「穏当」に考え、「或る程度」はそれを支持してきたわけです。
その本質が、「「冷蔵庫」の機械的、、、、仕組みは信用できる」というものに過ぎなかったとしても。

ムペンバ効果のように直感に反する科学現象、法則はありますか?|Quora

さて、話を戻します。
医者は、「「マスク」の機械的、、、、仕組みは信用できる」と言っているのに過ぎませんでした。それは「「うがい」の機械的、、、、仕組みは信用できる」と、ずいぶん長い間、うがいを推奨し続けて来たのと違いがありません。医者は原則的に「純粋な科学」が苦手なのですが、応用科学じみた技術要件を付することは好きなようです。

もちろん、科学は普遍的ですから、マスク周辺の対流から拡散状況を計算することは可能でしょう。実に興味深い話です。なぜなら、単純に、「面白い」からです。
問題は、医者に、そのような意味での「科学」は必要がない、ということです。
実際、医者がマスクを推奨することがあっても、「「マスク」の機械的、、、、仕組みは信用できる」と言っているのに、過ぎません。過去、さんざん、「「マスク」の機械的、、、、仕組みから、、「信用できない」」と言ってきたにも関わらず。つまり、医者は、マスクの「機械的、、、、仕組み」を信用するのをやめていないだけ、、なわけですから、「穏当」に考えるなら、どうなるでしょうか?

科学というのは、ひどく煩雑な手続きで、拙速を尊ぶ彼らの本質から離れることがしばしばあるのです。
このとき、私たちは社会的態度を決定するにも迷いが生じるのですから、生活態度で悲喜こもごもが発生するわけです。
私たちは、「生活」から逃れることができません。ひどく「強制的」で、しばしば「抑圧的」に感じることもあります。
しかし、社会からそれを見ると、あくまで「自由」のドメイン(領域)なのです。
そして、私たちが或る程度の「成功」を修めて来たのは、医者の思惑とは別に、拙速を私たちなりに避けてきたからもあります。
しかし、もう「拙速」ではないのです。


面白いなと思った。

「比喩」ということを考えるときに、「論理的」であることを感じることがあります。
つまり、「比喩」にはある飛躍を含むわけですが、アリストテレスはこう言ったのです。

例えば、牛馬のように働く、と隠喩を用いて表現するときに、実のところ、「牛」もしくは「馬」および「人間」を対比していると思います。
つまり、この括弧は、名辞(概念)です。
このそれぞれの括弧に「働く」という機能が含意されています。
このとき、このそれぞれ「働く」は一般化されています。「一般的に言って「働く」」ということです。もちろん、牛馬は人間ではありませんから、この括弧は、勝手な定義です。しかし、係る主体を通してみると、(「主体」であるがゆえに)一般化されているのです(そして、「主体」ゆえの勝手な定義であるとわかります)。
文学はこれを利用して、それだけで終わらず、個々の対象へ落とし込みます。つまり、私たちの個々人は取りも直さず「人間」の範疇に「在る」わけですから。つまり、これが、三段論法なわけです。
アリストテレスがなぜ、「新しいことを生む」と、或いはソクラテスの「産婆法」を、言ったかと言うと、抽象と具象の往来には「〇〇化」という飛躍を伴うからだと思います。しかし、これは「幾何的」であって、その意味で「科学的」ですが、解析的ではありません。

ですから、比喩は比喩なのですが、だからと言って、比喩が無駄なわけではないと思います。
「文学」ではなく、少し焦点をずらして「法学」を中心に考えてみると、その周辺に、「文学」「数学」、或いは「哲学」が、程よい感じで位置づけられます。
「法学」と「文学」が同じでないように、「法学」と「数学」は異なるのは、対象となる意味に評価を与えるにあたって原理を参照して採るべき手続きの体系が異なるからですが、この手続きを括弧に入れた内容を(「手続き」として)説明(解釈行為)するにあたっては、それぞれの言語運用の違いとなって表現されることになるようです。「文学」には「文学」らしい表現があり、「数学」には「数学」らしい表現があると思います。単にこれが無駄なことではないということに過ぎないように思います。

例えば、この判例集は、「或る物語」を私たちに提供してくれますが、それは文学ではありません。

或る判例を以て、「文学」と呼ぶに相応しいボディーを準備したときに文学と成るわけですが、もはや判例としては1ミリも機能しません(ですから、小谷野さんの興味深いエッセイが興味深いからといって、法学で—原理に照らして—参照されることはありません。法学でなくなってしまって、無意味だからです。巷の「事実」として参考にされることがあるかもしれませんが、その取り上げ方は主観的な「考え」にならざるを得ず、法学的な意味での客観性はありません。むしろ、学問の意義を考えたときに、なぜ、彼が取り上げて欲しい乃至取り上げるべきだと考えるかがまったく不明なのです。彼の発言が学問上のことでないなら、わかりますが、論文に書くのは基本的にどうでしょう?アトラクションが必要でしょうか。エッセイならわかります。面白いものとなるかもしれません)。それぞれなだけであり、それぞれに参照できるにすぎません(繰り返しになりますが、「参考」ならばアイデア披露となるでしょうが、「参照」と謂う以上は、学問上の原理に照らして正当でなければならないと思います)。そして、このようなダブルスタンダードは、決して不当ではないと思います。
そして、このような体系の違いによる、いわゆる「畑違い」なことは、「文学」「法学」「数学」或いは「哲学」のような「〇〇学」の間にだけ起こるのではなく、「国内法(憲法、人権体系)」と「国際法(主権体系)」との間にも容易に起こります。
ケルゼンが国際法は「事実」だと言ったことがよくわかります。

 メタファー(隠喩)は,長い間、単なる表現方法の1つにすぎないと考えられてきたが,最近になって,日常的な思考における中心的なプロセスであることが示されてきた.メタファーは単なる文章表現上の装飾ではなく,抽象的な思考を可能にしている基本的な手段である.認知科学の主要な研究成果の1つは,抽象的な概念が,メタファーを介することでより具体的な概念によって理解されているということである.この現象について20年以上にわたって科学的な研究が行われており,(細部の分析は今後の研究にゆだねられているが)認知科学における他の研究成果同様に,十分に確立されたものとなっている.

P.51,2.7 概念メタファー,身体化された心の認知科学,平24.12.

カリフォルニア大学の研究者たちに依って、20年前に書かれたこの本は、いまだにいろいろと興味深いので、もう少し見たい。

このケンブリッジの教科書は、チョムスキーに批判的な認知科学者たちによって、書かれたが、どうにも”ing”に関して、歯がゆい点があることにはすぐに気づく。
それに関して、著者も言い訳をするが、端的に、”Where Mathmatics comes from?”(『数学の認知科学』の原題)と問えば済む話である。数直線上の「点」(乃至「実無限」)はメタファーであると明快に答えている(前掲,xivはじめに)。

そのうえで、

 世界中のどの言語においても,動詞は本質的にアスペクト構造をもち,それはさまざまな統語的および形態素的な方法によってかえることができる.未完了アスペクトと呼ばれるものは,主プロセスの内部構造に焦点をあてるものであるが,他方完了アスペクトは出来事全体を1つの塊として概念化し,プロセスの内部構造には目を向けず,その行為の完了に焦点をあてるのが典型的である.

P.45,2.4運動制御と数学的概念,同前

しかし、ほんの一か所、些細なミスを犯したような気がする。

  • 数学は脱身体化され,推論は数学的論理の1つの形であるから,推論それ自体が脱身体化されている.したがって,原理的には機械も考えることができるということになる.

xiii-xivはじめに,数学のロマン,同前

これは「数学のロマン」であるが、「そのロマンは真実になり得ないことが明らかになってき」ており、「ロマンのどの部分も誤っている」と述べていて、

markovproperty.hatenadiary.com

に対する「考え方」を提供していると思うが、ここで「脱身体化」は「脱主体化」とした方が、歴史的に見て「よかった」と思う。
「脱身体化」は二元論とともにあったからだ。