結局、某も某も、「戦後」とは何かを照らし出しているだけなんだよな。

それは戦前の反射にすぎないというね。

だから、幾何的世界観のまま。

だから、特に法リテラシーが問われる対象について、わけのわからんことばかり言いだす。

そもそも、言及するには技術が要る、ことが問われていない。
反対に言うと、幾何的世界観から、戦後が脱却したのも技術であって

だから、勝手に、もんもんとしているだけなんだよ。


戦後がカントから始まって直後に挫折したのが象徴的なんだよね。

つまり、国際連合だけれど、例えば、フォン・ノイマンであったりもする。
カント・プログラムは否定的に解決されたんじゃないかと思うよ。

デカルト・カント・ショウペンハウアー」から「ノイマンゲーデルチューリング」へ

ノイマンが、ハートとまったく関係ないことを言ったかと言うと、

また、他方から見れば、フラーは法制度に備わる道徳こそ法の基礎であると主張するのに対し、ハートは、法制度がたまたま含む道徳を強調することが「法の自立性」を損なうと主張しているのであり、「法の存在意義」を問う論争であったとも言えよう[8]

ロン・フラー-Wikipedia

主体と主語の関係が、問われている。フラーは「本性」を言っているが、これはもちろん、「本質」の対義語だ。
「たまたま」という語が鍵で、これが「偶有的」を説明するがゆえに「本性的」であって、「本質的」ではない、のが、デカルト批判をしたカントの議論に沿う方法だ。
「偶有的」とは、自然科学の方法論ならもちろん、「確率的」ということだ。

この「デカルト」とはもちろん、イスラム神学者ガザーリーの解釈の下にある、「アリストテレス」のことだ。

そして、フラーが道徳を採り上げたように、戦後社会でも、道徳(哲学)が社会に必要とされるかが常に問われている。
一般的には、「必要である」と理解されているだろう。
ゲーデルが「神の存在証明」をしたのは、彼の目的であって、気まぐれではない。
レイモンド・スマリヤンが詳解したように、ゲーデルの師はアンセルムスだからだ。

ジョン・ロールズからアマルティア・センに至る議論だって平仄に在っている。
こういった議論のうえにフェミニズムもある。

否定されたのは、道徳ではなく、幾何的世界観である。
克服したのは技術である。