そういうことじゃない。

意思表示 - Wikipedia

ここで問題になるのは、むしろ、表示意志だろうと思う。

kotobank.jp

ラスウェルが、このように述べる時、

もとより価値剥奪された人間すべてが権力追求者としての政治的人間になりうるのではなく,条件が必要である。

  1. 自己充足されない渇望を家庭などの第1次サークルから公共の目標に転位する機会が存在すること
  2. 公共利益の名においてこの転位を合理化,正当化する機会が存在すること
  3. そして権力過程に適応した技能が獲得されていることである。

特に、1に関して、日常の転換を挙げられると思う。すなわち、政治的日常である。
このとき、「一生懸命がんばる」ことが時間で具体化されるのではなく、「日常性」の中で表現される継続的意思が彫琢されることになるだろう。日常の中に「刻む」ことである。
彼らが必ずしも、「政治的人間」かはわからない。
しかし、日常を政治的意思で「刻む」継続性を持っている。

トーマス・マンの軽蔑した非ロマンティックな大衆的行動は、

サルトルが「希望」と呼んだと思う。それが「友愛」に基づくからだ。
「友愛」とは結局は、政治的なホーリズムを目指す、「参加」(アンガージュマン)を感情(倫理)的側面から捉えたようだ。
これは宗教的信念に支えられているのに過ぎないが、近代社会も、共同体である限り、感情によって支えられているのに過ぎない。

ジャン=ポール・サルトル - Wikipedia

だから、彼らは、「冷笑的」であることを嫌う(いや、彼らに反する何かしらを、「冷笑的」と嫌う)。

どちらが「正しい」というのではない。
そういう政治的権利は彼らにも「ある」のだ。
それを理解しなければならない。

ただ、その運動は、「暴力」を排除した、穏当なものでなければならないだけだ。


そういったことが、貴方にはわからないだけなんだから。
貴方の見ている「事実」が意味の断片に過ぎないことが、貴方には、感情的な側面の未熟さで、わからないだけなんだよ。
「感情」には、「楽しい」「悲しい」だけしかないわけじゃないの。
こういう「成熟した感情」もあるんだよ。
沖縄の座り込みに関しては、弊害も指摘されているので、正直、感心しません。
だけれども、それとこれとは、別だよ。分けて考えられないことが、或る未熟を露呈しているだけなんだよ。


サルトルは、ライシテで失ったカトリック教会を求めているのにすぎない、あまりにフランス的考えに満ちていると思いつつ、ちなみに、私は、「暴力」に変わるのは「友愛」ではなく、「ケア」だと思っています。