国が燃える

日本が軍国化が進むと同時に民主化が進んだのは、軍隊が民主主義のチャンネルのひとつだったからだけれど、それは実は、上杉的な「愛国の民主主義」であるのと同等に、或いはそれ以上に、美濃部的な「参加の民主主義」を目指していたからである。

日本の村落において、(或いは、村を挙げての!)兵役忌避から、「お国のために」になぜ、変わったのかはわからないが、日本の民主主義が、「衆議主義」であったことは、わかる。

すなわち、ポスト中世から始まった近代化は、中央に於いては、混合政体を目指し、地方に於いては、村落共同体の衆議の調整を目指したのだ。それが、美濃部と上杉の態度の違いとなって現れたに過ぎない。近代化、ここでは、民主化だが。多チャンネルなアプローチがとられることを活写しているに過ぎない。
近代化が本格化するのは、彼らの後(大学の同期も含むが。)の世代からなのだ。
わかりやすく意訳すれば、美濃部は旗本(実務)の入れ替えを企図したのに過ぎないし、上杉は将軍(大樹;権威)の取り換えを意味したのに過ぎない。
それがやがて、議会(予算配分)と軍(人的動員)を通じて達成されることとなった。
ゴー・ストップ事件で、民衆の代表だったのは、中央の官憲ではなく、地元の軍人だった。

 

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これが衆議主義の名残である。
経済原理で民主主義は動かない。
何をしているか。
「衆議の一致」の反対にある述語が「話を蒸し返す」だからである。
議論は「決定する」ためにあるのではなく、ときには「決定しない」ために(「決定」しようとすると逆に反感を持たれる。)、「話を尽くす」ためにある。「尽くす」のであるから「話」は消尽してしまうはずであって、ひとつの理想は、二度と「話を蒸し返さない」ことにある。これがひとつの理想に過ぎないことは、再び、「話を尽くす」機会を持つこともしばしばあるからだ。

 

大正デモクラシーは昭和のファシズムを準備したのであるし、軍は政府の一員だったに過ぎない。「軍部の暴走」とはあくまで地方軍閥の暴走であった。
石原莞爾は主流派になれるだけの見識を欠いていた。これはもっと強調されてよい。
軍隊内部で常態化していた割拠主義が人気投票に支えられていたのであり、首脳部への突き上げが有力少壮軍人の出世の「登竜門」的役割をはたしていなかったかどうかは、文官における組合運動と比較してよい。岸信介も若手を組合にまとめ上げ、突き上げていたのではなかったか。

国が燃える 第1巻

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「俺の話を聞かない」のが悪いのだろうか?
「私の気持ちを理解しない」のが悪いのだろうか?
「そんなことは聞いていない」のだろうか?

面白いことに、ここでも、「おっさん」が揶揄されている。
まじめに答えただけであるのに。
それを戦前は「オヤジ」と言っただけである。