カテゴリカルな消去

『憲法問題』バックナンバー | 全国憲法研究会
憲法問題8P105,前衛への衝迫と政党からの離脱(石川健治))

 👇最新刊

憲法問題29 2018

憲法問題29 2018

 

 

自習用のテキストに「カテゴリカルな消去」の説明があって、これは行為論であるがゆえに経験論※に根差す自然法論と言葉(記述)の科学を目指す法実証主義の争いを根底に持ち、だからゆえに、日本国憲法の、アメリカ由来であること、即ちコモンローの系譜と、大日本帝国憲法の、ドイツ由来であるこことと、即ち大陸法の系譜の競合でもある。
そして、自然法という「宗教的側面」を持つがゆえに、キリスト教徒とユダヤ教(イエスとパリサイ人、アントーニオ=肉とシャイロック=文言)の相違も背景に持つかもしれない。 
憲法への記述は「一つの行為」であり、かつ、「ひとつの経験」である。ある経験(統帥権干犯問題)と別の経験(憲法への記述)を相対させる、経験(無)価値論である。

ユダヤ哲学―聖書時代からフランツ・ローゼンツヴァイクに至る

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 どうやって定式化できるだろうと考えるのだが。 

現代普遍論争入門 (現代哲学への招待 Great Works)

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👇よい例が出てきた。

www.asagei.com

爆問が「キワモノ扱い」していないかというとそれ

それはおそらく「嘘」で、はあちゅうさんの指摘はあながち間違いじゃない。
ならばなぜ、はあちゅうさんが炎上し、ぱいぱいでか美さんが納得されるかと言うと。
はあちゅうさんは「積極的」であり、ぱいぱいでか美さんは「消極的」だからだろうと思う。
ここで最初のセンテンスで示した、爆問の「キワモノ扱い」だが、既存価値を前提から問い直す活動或いは表示をして社会に対して挑戦的という意味で、かつての「悪党」のカテゴライズしていることが読み取れ、そのカテゴライズ(選択の恣意性)を指摘して実在論への(所詮、個人名にすぎないのに、どのような意図があるのかと、爆問の「積極性」を)批判するときに、「名指し(カテゴライズ)をしてしまう」という(或いは、選択の恣意性に対し、それ恣意的にを名付ける)同じ「積極性」の陥穽に嵌ったときに、ぱいぱいでかみさんだけが、事実の適示を恣意的に行わずに成し遂げたので「みごと」だったのだろう。つまり、新たな意味を付与せずに、意味の成立可能性(構造問題)に着目したのである。

 

トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論

トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論

 

 

 ここで、最初の憲法問題に戻るのであるが。
そもそも「統帥権」と謂うのは、それほど近代国家に珍しいことだったのだろうか?
実はそうではないらしい。
そうでは何が問題になったかというと、陸軍の「積極性」であって、そのような「積極性」を許容する憲法構造を浮かびあがらせて制御するには、果たして『カテゴリカルな消去』が正しい「消極的」な態度だろうか、と思うのである。