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- 作者: 宗宮喜代子
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2006/12
- メディア: 新書
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《名》とは何かー属性と位置
- 作者: 八木沢敬
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/06/16
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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アリスは言う。「私は、思っていることは、言ってる。少なくとも、言っていることは思っているわ」
帽子屋が言う。「それって『食べるのものは見える』は、『見えるものは食べる』と同じだと言っているようなものだ」
三月ウサギ。「それって、『手に入れるものは好きだ』は、『好きなものは手に入れる』と同じことだって言っているようなものだ」……。
あぁ、いい指摘だなぁ。
これはconventional implicatureの問題で、様相論理の問題ではないのではと思います。期待の問題じゃないですか。だいぶ前から研究がありますが、Pottsが博士論文で扱っています。at issueの問題ではないので、必然性、可能性の問題でないとおもいますよ。
— yukitakubo (@ninjalgogo) 2019年10月21日
👇見つけた
#1976. 会話的含意とその他の様々な含意
(hellog〜英語史ブログ)
論理式とはどういうものか、を考えた時に、
(『集合(論)』に対しては「翻訳される※」のであって、基本的には別のことと理解したうえで) ※論理記号∧は集合の演算∩に、論理記号¬は集合の演算c(補集合)に
①∀k(k|p→₍k=1∨k=p₎)∧¬(p=1) (pの約数はp=1かpで、p≠1)pは素数
➁pが素数であることをPr₍p₎とすると、
∀n∃p(p>n∧Pr₍p₎) 素数は無数に存在する※
※標準的な証明は帰納法で、「すべて」の素数の積に1を足すと素数であることから、その前提が否定されることを述べるのだが☛、∀n∃nn(n<nn) が すべての数には、それより大きくなる、或る数が存在する を意味することを踏まえている。
☛なお、順序を入れ替えた∃nn∀n(n<nn) は、不可能命題である。
また、∀n∀nn(n*nn=nn*n)は、交換法則を表わす(ここで*は或る演算子)。
そのうえで、彼らの「それとも」を巡る、「ベン図」を使った会話を読む。
{A}:{x>2},{B}:{x<5},{{A}∧{B}}:{2<x<5} ∀と∃の指示する内容とは?
{{¬{A}}∧{¬{B}}}={φ}
ーここに於いては、『奇妙』であってはならない。
A「または」Bとの違和感は、その可換性に関する認識が先立つからで、その分析的な理解ゆえである。反対に言えば、A「それとも」Bは、この両者の会話において、統合的に、或いは、発話的に理解されているのだろうと思われるのであった。
∀が或る逐一性を排除していないのなら、いちいち取り上げ"る"ときのそのいちいちと、いちいちとりあげ"た"うえでその結果(から述べられることを先んじて)とを同列に論じる必要があるだろうか。
ここで論理式を思い出す。
∀n∃nn は、分析命題「∀n」「∃nn」を、統合的に(順序を以て)繋いだ命題であった。だから、それは、∃n∀nnと区別されなければならなかった。
k=1∨k=pは、
k=1∧k≠p、即ちp≠1 と
k≠1∧k=p、即ちp≠1 と
k=1∧k=p、即ち(推移律が成立し)p=1 とを含んでいるなら
k=1∨k=p)∧p≠1は、k=1「それとも」k=pである。
制限規則である∧を使って、或る命題Pは、P=U∧P と謂える(自明)なら、
恋「それとも」愛 は 「恋」と謂う命題と「愛」と謂う命題について、述べたことではない。愛や恋は命題ではないからである。しかし、中心的な意味についての共感は一般的に「在る」といえるので、
恋「それとも」愛、「それとも」、愛「それとも」恋
とも言える。ここに単なる形式性、すなわち、直観主義論理命題で説明されない、発話の意味があるように思う。
述語論理 - Wikipediaと議論領域 - Wikipedia,意味論 - Wikipedia
結合法則 - Wikipedia
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