(メモ5)暫定的な結論:「アラバ」であっても構わないが、そうである必要はなく、いずれにしても「アレバ」で賄える構造的な理由がある

 

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已然形は経験を示すので、確定条件(現に経験したことで・1度の)と恒常条件(経験したことのすべてで、或いは経験することそのもので)の両方を含み、このとき恒常条件が抽象性を帯びるので、仮定条件の具体性(いち経験)を(必ずしも)排除しないのであれば、それこそが混乱の原因であろう。
「仮定条件」「確定条件」「恒常条件」のずれて、ねじれた対称の3要素が、「未然形」「已然形」という2要素に埋め込まれるときの※1、この非対称な比較にその原因がある。
(「終止形」「已然形」の2要素に埋め込まれる場合との違いに注意を要する。※2

今のところの到達点である※3
なんとも不思議な日本語であり、一種の名文でなかろうか。

※1 逆接の確定条件と恒常条件の違いがわかりません | 古典に関する質問 | 勉強質問サイトでは仮定条件(の逆接)が終止形についているが、(已然形を)未然形と比べるときの問題と意味的な違いはあるだろうか。

※2 「風が吹くというので枝から離れて散ることのないように、青柳の糸よ、桜の花を枝にとじつけてくれ。」(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu5/jitenoo3.html

あらば(未然形)ーあれば(已然形)  将来あったとき・場合    未然形が個別
見ると(終止形)ー見れど・も(已然形)見たけれども・見てもいつも 已然形が個別
のそれぞれのペアで、一般的事実示すのが、いずれであるか(已然形、終止形)。
対称のずれがここでも不思議な関係を結実している。
この終止形の「吹く」を「非完結相」(の未来時制)と考えるべきだろうか。
相 (言語学) - Wikipedia
「降る」とは地面に到達することであるから「完結相」で、「吹く」はどこを目標とすることではないので「非完結相」と言って差し支えなさそうである。
手話の「習慣相」は認められても、「恒常相」は認められないらしい。そうだろうか?

※3 途中経過に過ぎない。検証例が乏しいか、ない。
一説によると300もの解釈があるらしいが、そのどれが正しいかより、そのような解釈を許す理由として、「曖昧だから」ではなく、「矛盾」だからであり、それは両立不能を指すのではなく、構造上非排除を施行しているに過ぎないからだろう。論理とは仮定の排除の手順であり、その中で矛盾とは仮定が排除されないことを意味するからである(矛盾の論理式がある)。このとき300もの実例は、予定されていない条件を各々が付加したに過ぎない(ならば、それを云々しても仕方がなく、ただその構造を謂うべきである)。


教育勅語を復活して欲しいなんてことは言っていない。
内容ではない。
ただ、その不可思議な構造をうまく使って巧みであるから、感心している。
確信したが、日本語が非論理的なんてことはなく、ただそれを説明してこなかっただけである。いや、論理的なんてことは、数学や英語のような、人工的な便宜を用いて始めて説明可能になっただけのことである。論理とは使用勝手の帰結に過ぎず、そうやって削り取られた道具を持つまではそれを持っていなかったので、説明できるはずもなかっただけである。
我々は、日本語も英語も同じ言葉に過ぎないと思っていたか、日本語が特殊だと思っていたが、反対に、英語がその成立上きわめてユニークだったようである。

また言えることは、日本語を理解するには文法だけではやはり不足しているのである。