(メモ2)

ようやくいい感じになったと思うけれどダメかな?

これ「一旦」を∃xとすると、已然形は∀y∃x(yは緩急)になりかもしれないんだよね。
そうするとパズル的な面白さも出てくるんだけれど。
日本語が詰まらないのは、訓詁解釈に終始して、訓話的だからじゃないのかな。
そうすると、例えば

 ①柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
 ➁柿食わば 鐘が鳴るなり 法隆寺
 ③柿食いて 鐘が鳴るなり 法隆寺

何が違うんだろうって考える。
「ば」を主節を成立させる与件につく、「て」を主節と時間を前後して連続して起こる出来事を表わす文につくととりあえずしたときに、①と③の区別がつきにくい。
そうではなく、やっぱり已然形であるとき、「食う」ことの日常性に焦点が当たって生活感が出るから、印象に残って、「名句」と云われるようになったのではないだろうか(発表当初は反応がそれほどだったらしい)。
そうすると、偶々の日記じゃなく、柿を食うたびごとに、法隆寺の鐘が鳴る情景を思い出し、風情を感じられる。
正岡子規がおそらくあまり意識しなかったのが、いいね。自然な情緒に共感できて。

フレーゲ文を使うと、本来あり得た表現の日本語からの喪失についても考察できるようになるんじゃなかろうか。
「一旦緩急アラバ」は(已然形の逐一性と反対に)∃yと表現されると思うけれど、文を完成させたら、どうなるのだろう?
そうすると、ほかの表現の可能性も見えてくるだろうか。
日本人は論理的ではない、というが、日本語自体は極めて論理的なのだが、論理的には教えないだけだろうと思う。

 

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