自分の文章を直すのが大変だったりする。
国語は難しい。
おかしな文章で申し訳ありません。
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『作者の気持ちを理解する』設問或いは授業として一番有名なのが『ごんぎつね』についてだろうと思います。
他しか『ごんぎつね』の授業での取り上げかた、解釈を巡っては批判もあって、その在り方に変遷が見られたと思いますが、それについて言及した論文を見失いましたので
を参照したいと思います。ベテランの先生なのでしょう。よく練られた授業だと思います。
👇は保護者の方が率直に感想を述べられた好例だと思います。
討論を煽っているのではなりません。
私が最初に知能テスト挙げた理由になりますが、物語は場面を想起させることで理解を促しますから、問われるべき能力について誤解が生じやすいと思ったのです。
まずは予断を持たずに『ごんぎつね』を読んでみます(青空文庫)。
近景と遠景を交互に描いて風景を織りなす構成物を次々に配置しながら、例えば、『つかみにかかりましたが』と言った風に、モーションの持つタイミングをひとつひとつ丁寧につなげて風景に流れる鼓動的な時間を呼び起こしては、一方で、オトノマペを用いた緊張感で、場面場面の中の時間に緩急をつけて、活き活きとした躍動感を与えています。
そのような景色を背負って、物語上意味を持つ場面や状況については会話態で説明することで、読者との特別な関係:内輪の関係を企図します。或いは、読者に限らず、会話態(鍵かっこでくくられる言葉)は独り言や考え事であったとしても、関係を繋ぐ意図を見せて、場面と場面を関連付けながら物語を動かしてゆきます。
これとコントラストをなして或るのが、鍵かっこのつかない、考えや独り言で、こちらは意図の食い違いや関係を拒絶している孤独な状況を説明しています。
詩が韻を踏むのは、リズムを作ることで聴覚を通じた一体感を得るためですが、この物語の場合、最初の遠景/近景の配置に見られるように、コントラストがこの物語の全景に一体感を持たせています。今あげた、遠景/近景、動き/音、赤/青、会話態(鍵かっこの在る発話、考え、独り言)/非会話態(鍵かっこのない、同前)、兵十が盗人/ごんが盗人などです。これらが物語に陰影を与えています。
そこに象徴的な意味を読み取ることが『作者の気持ちを理解する』ことになります。
ラストはこうなっています。
(引用開始)
「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。
「ごん、お前まいだったのか。いつも栗をくれたのは」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口つつぐちから細く出ていました。
(引用終了)
「びっくり」が3回目、「いつも」が3回目、「ばたり」が2回目でクライマックスを迎えています。最後は赤とコントラストを持たせた青が何かを象徴しながら静かな時間の経過のうちに物語が終わります。
これが現実のハナシならば、偶然による錯覚ですが、詩的な創作ですから、想像の余地が生まれます。
前回、①作者の気持ち、②登場人物の気持ちを理解するにあたって、❶情景の理解について、『絵の解釈』『共通点』、❷文の理解について『文の完成』『語の意味』、❸文章の理解について『話の記憶』『話の不合理』を挙げました。
これだけではこの物語を理解するのはいささか不足しているようです。❶の情景の理解を❸の文章の理解へ繋げる必要があるためです。この物語を読む前には、❷の文の理解を❸の文章の理解へ繋げる必要だけを想定していました。
社会性を問うと思しき田中ビネー知能検査Vでそのような能力は試されないでしょうか。そんなことはありません。暗号や図形から法則性を見つけ出し、次の展開を推理する問題形式です。
物語を見ると、対概念が場面ごとに配置され、対照的な意味を帯びています。ここから象徴が表す意味を推理することになります。
「赤」は「青」と同じように悲しい場面にあっても関係の豊かさであったり生命感であったり祭のにぎやかな像を結んで社会の永続性を思わせます。「青」はゆっくりと静かに時間が流れ、このうちに孤独の寂しさ、無機質さ乃至冷たさ、微動だにできずに無念さをにじませています。
考えてみれば、このような象徴交換は、社会構成の基本にあったわけです。
さて、先生はどのような授業をしたのでしょうか。
「作者の気持ち」から1歩踏み出して「作者の意図」に進んだようです。
私がさきほど述べた「作者の気持ち」はその物語を作り上げる作者の特権的な地位に基づく物語上の「世界観」と呼ばれることで、表現から不可逆的にうかがえるその構成目的のことですが、それを「読者にそう読ませる意図がある」とは考えずに、「読者に共感を求める元である作者の気持ち」と理解しました。求められているのは作者から差し出される表現への共感に基づく、二者間の関係の構築です。
他方、先生は、まずは児童同士で自分自身の、個別に抱いた感想を発表させたうえで、それぞれの感想を比較するときそこに見つかる共通の理解に気づかせ、そこからそれら別々の感想ながらもそのうちにある共通の理解を導いた作者の意図を想像させる企図となっているようです。
言葉の持つ科学性というのでしょうか、言葉の引き出す力への信頼でしょうか、反対に言葉に引き出される普遍的な感情への確信でしょうか、そういったことを思いましたが、それへの評価は差し出がましいのでいたしません。
もう一方の方のお子さんの先生は、3問出しているようです。
Q1 いわしをぶんなげたときの気持ち
Q2 栗をぎゅっと置いたときの気持ち
Q3 兵十を覗き見たときのごんぎつねの気持ち
これについてお子さんは、いわば、場面で決めることもあるという日常からの想像です(自分のこととは限りません)。
これについてお母さんは、TOEICのようなものがいいと思ったらしい。
私も小学生の時に、似たような感想を抱いた記憶があるので、これを非難するつもりは毛頭ありません。
ただ最後の、ストーカーという評価については、言えないことはないと思います。
Q1からQ2への流れは社会性の獲得(が相手の気持ちに気づくこと)を含意しているからです。だから「ストーカー」というのはなるほどひとつ考えどころで、「やりこみ要素」になるわけです。日常を見渡すことで想像を働かせて自分の意見として述べられることも小学生としては評価されてよいと私は思います。
つまり、このお子さんについては、「もう少し」でパーフェクトなわけであって、「Q(quando:何時?)待ち」なわけです。この場合の「Q」はきっかけのことですが、好い問いかけは理解のきっかけを作ります。
この先生の設問は、私が述べた「作者の気持ち」や別の先生が述べた「作者の意図」ではなく、「登場人物の気持ち」に関してです。
ごんの気持ちははっきり文中で示されています。想像を膨らませる必要まではないでしょう。これはコントラストが対を為して意味を補い合いますからそれにだけ注意して適当な個所を指摘すればよいでしょう。
「なげ」と「投げ」が対ですから、うなぎを『ぽんぽんなげこんだ』ときの『ちょいと、いたずらがしたくなった』と『いわしを投げ込んだ』ときの『まず一ついいことをした』のつながりです。それが『ちょッ』とした後悔を挟んでいます。
A1 つぐないの気持ちからだが、少し軽い気持ち
ではないでしょうか。『つぐない』であることは文中に示されています。
ところがその自分の軽率な行動が間違っていたことに気づいて、兵十へより深い共感を向けることとなりました。
直後の『そっと』もその反映と考えることもできますが、文中に明示されていないので避けます(先生は、それを問わないことで、『勝手に気持ちを察する』ことを控えているわけです)。或いは、クライマックスの『それで』は2回目ですが、最初の『それで』は、気持ちが行動の原因となっていることを説明していますので、同じように、『こっそり』を考えたくなりますが、それについても先生は触れていません。そうして、あくまで、Q1と比較することで理解が深まるQ2を問うわけです。
ただこのときは、『つまらないな』『引き合わないな』の後の気持ちです。Q2で問われているのは、(あくまでQ1との関係で)なぜ、そう思うに至ったかでしょう。順を追って考えると、軽い気持ち→深い共感→理解されずつまらない→(それでも栗を置くのをやめないのはなぜですか?)
なんとなく?そんな気持ちの時もある?
それは深い共感に至った経緯で変わったはずです。大事な人に対してそんな態度を取りますか?それではごんがとった行動を振り返ってみましょう。おねんぶつがすむまでじっと待っていたのはなぜでしょう?いわしをなげ入れたときはどうでしたか?
軽い気持ち(かけもどる)→(じっと待ったが)理解されずつまらない
A2 理解して欲しい気持ち
A3は省略。
この先生に関しては
〇 本文を慎重に十分読むことによって、無理なく探しだせるトピックを選んでいる
(読解する態度※に裏付けられた判断能力)
〇 認知の発達に応じて、当該学年児童に望ましい理解を求めている
(情操の発達から獲得される共感の深まりに沿って働かせる推理能力)
※まず慎重に(我慢を続けて)読まないと、「読解」に至りませんよ、ということであって、この年頃ではおそらく仕方がないのでしょうが、ほとんど本文を読んでいないのではないでしょうか?私は大人ですが、苦痛でした。その程度の適度な分量のある読み物であって、それがまず求められていると思います。
能力の開花を助ける、促す努力が必要と考えて、それは開花せんとする自助努力に沿う教師の努力と考えているのではなかろうか。
方法の闇雲な模倣であっては、人間的な能力の開花に繋がらないと考えているのではなかろうか。