戦前、社会民主主義者はなぜ、本来そうあるはずの反共とならずに、容共となったか

林が転向した理由は実に明快である。
マルクス主義は学問水準としては非常に低く、間違いだらけなのは最初から指摘されていた。ただ、それでも資本主義の現状を理解する枠組みのアイデアが門外漢からすれば興味深かったし、その当時はそれを求めている人たちに歓迎されただけで、学術的でないにせよ、いかにもうまく説明できているように見えたからである。
だから、戦後、うまく説明できないように見えた時に、転向しただけである。

ベンサムにしたところで、彼の基本的な論理的な誤りは、最初から指摘されていたが、彼のアイデアを克服することで、経済学が進歩した、という経験もあったので、楽観視されたのではないかと思う。実際、マルクスの論理を精緻化する試みが行われた。しかし、見たところ、マルクスが「科学」と僭称したものは、所詮、複式簿記の「科学」に過ぎず、残りは、聖書の中でも「異端」な、黙示録の焼き直しで、むしろ、神のいないキリスト教を欲していた西洋近代社会に応えた内容に過ぎないと思う。マルクスが残したものは、「人々の騙し方」であり、そういった意味では、ヒトラーの言葉に近い。


林が、いかにも客観的な状況の説明に終始し、心情を告白できていないように見えるのは、自らの不明を恥ずかしく感じていて言葉が出て来なかったためであろう。

著者の論法は、例えば徳川家康が天下を取ったという結論から出発して、そこに至るまでのあらゆる局面や戦場で、家康は全ての人物を操り、家康は常に正解を選択し、家康は一貫した計画のもとに天下人になった、というものです。

投稿者海尾 守2016年4月4日
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このコメントをどう評価するかのやりとりが興味深い。
結論を言えば、後件肯定の誤謬なのだが、一見説得的である。
論理とは、真なる前提を正しく演繹すると、真なる帰結を導引することを保証するものだが、非論理的な言説が、誤りを保証するものではないからだ。
このコメントについて言えば、部分的には正しくとも、全体の主張を導くには間違っている。批判子は、この「部分肯定の詭弁」を以て左翼と判断しており、確かにそういった論法を駆使して錯誤に陥らせることをよく見たが

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この人は善意で間違ったのではないだろうか。いや、わからないが、そういうことを考えても無駄なのだろう。ただ誤謬を指摘するのが、穏当かもしれない。
 

 

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