わかったかな。

あくまで「リスク負担」であって。

  それによって何かがわかるようになる

ことではなくて

  すでにわかっていることを損なわないようにする

ことが、アンセルムスの「理解」であり、論理の基本的性質なんだ。

それは唯一神の擁護であり、三位一体の擁護であり、したがって、救済の擁護なんだ。

だから、喜び、なんだよ。

それは受肉した(事実として在る)イエス(外なるロゴス)の神(内なるロゴス)であることの理解に意義があったんだ。
それらは「あれ」と「これ」と言った、、、風には比較不能な対象だったんだよ(清水)。

だから、「比較する限り、偽」で「比較しない限り、真」な対象だったんだ(高橋)。

 

この人、面白いけれど、

この「アンセルムスの証明」は、次の世界記述主義に逸脱している。

Title 第6講 : 中世 : 暗黒時代 Sub Title Author 石川, 史郎

https://koara.lib.keio.ac.jp › xoonips › download.php

かなり無手勝流で、標準的な理解では、それだと「ゲーデル不完全性定理」すら『日常言語の中の単なる言葉遊び』になりかねないのかな?(高橋は、アロンゾ・チャーチの愛弟子スマリヤンを引いて、ゲーデルの証明の原型となった論理構造をこの中に見る)。

それは置くとして(単純に無知なだけで、宗教を見下して相対性理論を説明したりする方が、「理系」の学生のプライドをくすぐってウケがいいから、そういう飛ばしたことも言うのだろうけれど。そう考えると、ゲーデルって、かなり特殊な人だよね。ゲーデル解は、ゲーデルにとってただの遊びだからね。だから、ゲーデルの神の存在証明も戯れと見做すことはできない。そちらは「本職」だから。どちらもゲーデル流の理性を貫いたものだ。ゲーデルには「選球眼」があって、それに答えることの意義に答え続けただけだ)。

興味深いのは、この人が、それを『日常言語』にしか思えないこと。
それは本質的に重要だろうと思う。
所謂よい失敗だ。