おもに備忘録

なるほどね。これだね。
QR//PA、QP//RAに気付けるかどうか


Rの位置を a 4 としないように。

立方体を半分に割ることで、同じ底面積と高さを持つ三角柱、斜三角柱の体積がどれも等しいことが分かる(cf.底辺の長さと高さが等しい三角形の面積はどれも等しい)。

 

構造の相当性の発見から(直角三等辺三角錐が立方体の一部に相当することを発見することから)、構成的意味を発見する(それが断面を持つとき、中心に関して対称を維持した断面—六角形—となっていることを発見する)という二段階の認知上のジャンプアップの機会を実際どれだけもてるのか、それには抽象化する能力が必要とされるが(例えば、「国Ⅰ」の問題なら、「切る」という具体的手続きが、「平面」という抽象的図形になる、すなわち、手続き構成上の個別の事実的経緯が、図形構成上の固有の要素的特徴になる。時間的説明が無時間的説明になり、むしろ、帰結から—背理しないよう—整合的に理解され直されなくてはならない。特にこの認知の転換が、)、小学校で「対称な図形」を習うことから、どうなのだろう?

今回は、「それが立方体の一部であるかを如何に気付けるか」、その契機に焦点を合わせるのが一番説得的であると感じたのが、私のくだくだしい言い分である。

そして、閃いたところ「だって、そうなんだもん」から一歩踏み出して、構成的に説明できるならば、その説明はより発展的な「問いの構成」を生むことに等しいだろうと思うのである。今問題ならば、点対称な立体の断面が点対称と成っている図形であった(点対称な断面を点対称な立体に埋め込むことが可能である)。これは立方体に 寄せて、、、 理解する必要があったが、それを離れて理解することが 可能と成ること、、、、、、、 であった。


小学校での「「対称な図形」の習い方」を思い出した次第だが、私の場合、図工と算数の融合授業(実験授業)であらためて習ったとき(小学校では学年が変わっても同じテーマを繰り返し習って、順次理解を深めてゆくことがある。)、6年生になると、個々人の工夫が見られるようになってきたのが印象的であった(この「工夫」を表現させるための融合授業である。一方向授業からの発展)。「数学的に正しい」ことに拘らず「いかに逸脱させるか」から反対に「正解を自己表現の内に発見する(指摘をすることで、メンターとしての  役割を果たす)」ことで「発見能力(のあること)を自己に認める」授業であると思う。実際、部分的にせよ、線対称(これが授業の当初の目標であった。)だけでなく、点対称から回転対称にまで及んでいた(回転対称については、親の助言があったようだが、実は、私も思いついて居た)。

私が、自己流の対称の定義の措定から、「面対称」のアイデアを得たのもこの授業で(四色問題直観主義的な幾何学「層」―乃至トポスーから説明することを忘れそうになるので、備忘的に。どういうアイデアだったか、半ば忘れてしまった。線の「平行」と「交叉」を、矛盾から構成する「点」から定義して※、「外に連なる無限の面と内に連なる無限の面を(選択的に)排除して隣接する有限な5面に関して(局所的に)成り立つ。任意の隣接する5面に関して言える」、だったような気がする。要は、「方向」と「距離」を欠いて、相対的な関係から平面を構成するとき、点が超越的な「位置」ではなくその構成的な(位置)関係を内包的に—再帰的に—持つ—或いは、埋め込み可能な—とき、「矛盾」から「無限」を構成するが、それが選択公理に係って独立であるという主張を含む。この操作が上手く行くと、全体を見るまでもなく、目の前の隣接する5面だけをみて「四色定理」が成立すれば十分であるという主張である。※線の交叉から点が構成されるとき、「矛盾する点」と「無限を生む点」に分けたのであるが、「点」を挟んで向かいに位置する2面が「隣接する」面ではなく、同一色を塗ってよい、すなわち(この2面が)「平行」な(2線の)関係を以て「在る」と見做せるからである。すべての面が「隣接する」か「平行である(隣接しない)」かが「わかる」には、点に同様の構造を埋め込む必要がある。そのとき、点を挟んで向かい合う2面が「隣接していない」と言える。そして、それがすべての点に言える時、或る点の「内」に無限集合が構成されるのである(「内に連なる無限の面」とはこのことである)。私にできるかわからないが、アイデアとしては正当でないかと思う。)、他にも、隣接二項間に成立する関係式の無限展開で円を表現するアイデアを得たのもこの授業である。

トポス (数学) - Wikipedia

ja.wikipedia.org

manabitimes.jp

cf.影響を受けたわけではないし(というか知らない。)、技術的にこれとそれとは違うんじゃないかな?(というか、単純に、知らない。)と想像するが、「スポッティな点」でなく「複雑な形と大きさをもった広がり」が興味深い


★★★★☆  「スポッティな点」でなく「複雑な形と大きさをもった広がり」が予測のターゲット?
2018年3月21日に日本でレビュー済み
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株価暴落は大地震予測と類似した非線形数理モデル、カオスやべき乗則(両対数プロットで直線)の特徴で解釈可能? FXレートの変動の理由、所得分布グラフに見る社会階層など、面白い。
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なに余計なことを言っているかと言うと、ブラウワーの直観主義論理への信奉である。

(P.332,『ロジ・コミックス ラッセルとめぐる論理哲学入門』)

 

ブラウワーの直観主義とボルシェビズムの比較は、政治的な類似性を意味するものではなく、むしろ確立された規範の根本的な拒絶における並行を意味していました。フランク・ラムゼイは、20世紀初頭の数学をめぐる哲学的および基礎的な論争の文脈で、この比較を行いました。

ブラウワーの直観主義は、人間の直観を超える数学的対象の存在を否定する哲学的および数学的アプローチでした。直観主義によれば、数学の真実は発見されるのではなく、心の直観を通じて構築されるものです。この立場から、ブラウワーは、古典的な論理と集合論を拒否しました。これらは、主流の数学の多くにとって基盤となるものでした。

ラムゼイは、「ボルシェビズム」という用語を使用し、ブラウワーの数学におけるアイデアの革命的な性質を強調しました。ボルシェビズムとは、20世紀初頭のロシアのボリシェビキ党に関連する根本的な政治的イデオロギーを指します。これは、確立された政府や社会的規範を打倒しようとしたものです。同様に、ブラウワーの直観主義は、古典的な論理や集合論などの確立された数学のパラダイムを、直観と建設主義に基づく根本的に異なるアプローチに変えようとしました。

ラムゼイの比較は、直観主義が当時の従来の数学的思考からの劇的な脱却を強調しています。これは、20世紀初頭の数学の基礎的な問題をめぐる議論の論争的な性質を強調しています。

 

心の直観を通じて何かを構築することは、特に幾何学的な図形や幾何学の文脈において、ある程度、カントの先験的認識の概念と一致することがあります。

カントの哲学において、先験的認識とは、純粋な理性や直感によって経験から独立した知識を指します。カントは、空間や時間を司るような特定の基本的な概念や原理は、感覚的な経験から導かれるのではなく、心の構造に内在していると主張しました。これらの概念は、我々が感覚的経験を解釈し、整理するための枠組みを提供します。

幾何学的図形や幾何学に関する場合、形状、角度、および空間的関係を心理的に構築したり、視覚化したりするプロセスは、経験的観察よりも先行する形式の直感的理解を含むことがあります。この直感的理解は、カントが先験的と考える固有の認知構造や枠組みに基づいている可能性があります。

たとえば、三角形や円などの幾何学的な形状を心理的に視覚化する場合、ユークリッド幾何学などの基本的な幾何学の原理に対する直感的理解に基づいて行うことがよくあります。これらの原理には、角度の関係や形状の特性などが含まれ、特定の感覚的経験から派生しているのではなく、我々の固有の認知の枠組みの一部であると見なすことができます。

ただし、幾何学における心の直感を通じて概念を構築することは、カントの先験的認識の概念と一致すると見なすことができますが、カントの枠組みは幾何学以外のさまざまな形式の知識も包括しています。さらに、カントの幾何学に関する見解は主にユークリッド幾何学に影響を受けており、後の非ユークリッド幾何学の発展により、幾何学的直観の先験性の普遍性に関する疑問が提起されました。

 

G・レイコフのような心理主義認知心理学)と異なるのは、用いられるメタファーが経験的であることだろうか。

ブラウワーが「時間」と言ったのは、カントの影響だが、これは経緯を以て成ることが、論理で説明されないからで、順序或いは展開ではだめだったのか。

イマヌエル・カントの哲学、特にその『純粋理性批判』において、「時間」という用語は、彼のアプリオリな枠組みの中で特定であり、重要な意味を持ちます。しかし、カントの哲学において、「時間」とは、日常的な言語で一般的に理解される時間の概念に単に言及するものではありません。むしろ、それは、私たちの経験を構造化するアプリオリな基本的かつ普遍的な直観の形態を表しています。

以下は、カントの枠組み内での「時間」のさまざまな意味と影響の探求です。単に時間を費やすという理解を超えています。

  1. 超越的主観性: カントにとって、時間とは私たちが経験から観察または推論するものではありません。それは人間感性の超越的な条件です。私たちが知覚するものではなく、むしろ私たちの意識の固有の構造であり、私たちが経験を知覚し、整理する方法を形作ります。

  2. 統一と連続性: カントによれば、時間は経験が統一性と連続性を持つための枠組みを提供します。時間の構造を通じて、私たちは出来事を意味のある順序でつながり、展開していると知覚することができます。この時間的な統一がなければ、経験は断片的で混沌としているでしょう。

  3. 非空間的で非経験的: カントは時間を空間的な概念から区別します。時間は空間のように視覚化したり、空間的に表現したりすることができるものではありません。それは感覚的な経験から派生しているのではなく、どんな経験の可能性の条件である非経験的な直観の独特な形態です。

  4. 必然的かつ普遍的: カントによれば、時間は直観の形態として、あらゆる合理的な存在にとって必然的かつ普遍的です。それは個々の経験や視点に依存していないが、人間の認識の基本的な側面です。

  5. 形而上学的探求にアクセス不能: カントは、私たちの経験とは独立して存在する時間については何も知ることができないと主張します。時間は彼にとって、心によって現象に課される主観的な枠組みであり、したがってそれは現象の領域に属し、物自体(物事がそれ自体であるようなもの)ではありません。

要するに、カントの哲学において、「時間」とは、口語的な使用法を超えた複雑な意味のセットを包括しています。それは彼の超越論的唯心主義における基本的な概念として機能し、私たちの現実の経験の基盤となる、普遍的で必要不可欠な人間認識の構造を表しています。時間は単に時間を費やすことに関するものではなく、むしろ私たちが現実を経験し、理解するための枠組みそのものについてです。

 

カントが時間を形而上学的探求の対象として不可知と見なす見解に関する声明は、心理動力学の概念を直接的に説明しているわけではありません。

心理動力学は、心理学の研究に主に関連付けられる用語であり、特に精神分析の文脈で用いられます。それは、しばしば無意識の動機や欲求、衝突を含むさまざまな心理的な力やプロセスの相互作用を指し、これらが人間の行動や精神機能に影響を与えるものです。

カントの哲学は人間の認知や経験の本質に関する探究に深く入り込みますが、彼の議論は主に心理動力学などの心理学的現象ではなく、形而上学的、認識論的、倫理学的な探究を中心としています。カントの時間に関する視点は、その声明で述べられているように、人間の経験のための主観的な枠組みとしての役割に焦点を当てています。それが心理的ダイナミクスとの関係についてではなく、心理学的ダイナミクスとの関係についてです。

ただし、カントの考えと心理動力学の概念との間には間接的な関連性があると考えられます。特に、カントの人間の意識と経験を理解する枠組みが心理学全般の議論を通じてどのように情報提供を行うかについて考えることができます。ただし、心理動力学の直接的な説明には、カントの哲学ではなく、心理学の理論や枠組みに深入りする必要があります。

 

なるほど、カントの後にヘーゲルが出てくるはずである。ヘーゲルの概念論とは神学的な実在論ソクラテス的な主体化である。それがヘーゲル的な「主観」である。カントの「主観」はここまでは言っていない。

ヘーゲルは小難しく言っているだけであるが、ただの三段論法であるところ、カントを踏まえて、それが主体化されている。ピタゴラス教団にあっては「数こそ神」、明言していないが、アリストテレスにあっては「論理こそ神」、ソクラテスにあってはそれが近代的主体である。

デカルト、カント、ヘーゲルと、どうやってギリシャ哲学を受容してゆくかの変遷があったようである。本当に、神学とギリシャ哲学から抜け出せたのは、19世紀から20世紀にかけての話である。それまでは相当乃至決定的に影響力を持っていたのではないか。


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伊藤大海 (野球) - Wikipedia

スポーツなんて、体力あるやつがマウントとるためにやっているだけでしょう。
ようやく大学での「いじめ」も問題になり始めたね。
本当のことを言えばいいのにね。

寮生活にしたところで、そもそも一日中練習漬けにするのが効果的なのかと、そもそも経費削って、無償労働させているだけなんじゃないの?
つまり、最初っからブラックだし、野球部の監督の責任は重いね。
今はどうか知らないけれど、理系の特に院卒なんか、教授の一言でしょ。それといっしょで、知っていて行かせたから、、、、どころか、辞められると「困る」相反利益があるんだから、ちょっとこの子自体「世間知らず」だったね。まあね。人を「信用できなくて当たり前」の世界に身をやつすのがよいかもわからないけれど。

もう大人だから保護対象じゃなく、そろそろ刑事罰も考えないと本当は間違いだけれど。

大学が「モラトリアム」の遊び場じゃないことが、「大学無償化」を前に、もっと知られた方がいいかもしれないね。

だって、これ、昔の話じゃないんでしょ?

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親にしてみれば、大学の成績なんて、(無償の)奨学金でももらえるのでなければ、留年せずに、卒業すればいいよって感じで、ただし、

  1. 就活
  2. 生活
  3. 婚活

をして欲しいから、まぁまぁ、自分の希望通りに1に関しては計画を立ててやってもらうしかないけれど、2と3だよね。

ライフデザインに関係する、金融、健康、福祉、と各種イベントに関しては、社会に出る前に、いっかい、見とけって感じだよね。

3に関しては、結婚云々もあるけれど、要は、それに見合うだけの人格、相手と対等に向き合えるだけの人格に到達しているかを客観的に指摘される経験って、特に今の時代は、あった方がいいかもしれないなということで、昭和の時代は、単純に、だまくらかしていたんだけれど、つまり、嘘から出たマコトってわけで、後追いすればいいかって話なんだけれど、今はそんなわけにもいかないしね。逆に、前倒ししなきゃならない。

要は、「飲む」「打つ」「買う」は、「酒」「博打」「女」なわけで、「酩酊」「射幸心」「煽情」で過剰に「振るう」「躍る」「催す」ことが社会から逸脱することですが、反対に、社会的な関係から逸脱せずに、適切に水を差して善導して欲しいと願うばかりだ。自我が大きく広がって何かと危険な時期であるところ、暴力的でない仕方で、適切に、こじんまりと収まって欲しいのである。

貴方は、傍から見たら、正味、こんなもんですよ、と「存在自体の値打ち」というよりも、行動(外観)を内面化できるよう値踏みして欲しい。

news.yahoo.co.jp

そういったことは、例えば、こういったことも社会文化として十分許容されていて、

消費文化がアメリカ型乃至日本独自の傾向を持つから、なんとも言えないけれど。

  1. 凡ての制度は補完制度
  2. 子育ては20年スパン
  3. 親が受けた教育

ということを考えた方がよいから、早急に真似するわけにもゆかず

  1. 奨学金返済
  2. 勤労学生の性風俗産業従事

が(一生涯の)ライフマネージメントの負担になりやすいので、大学までは、と考えるのが、日本の場合、一般的だろう。
本当は、結婚までは、でないかと思う。これに関して、フランス人も、

両親や義父母の援助は無用、夫婦やカップルが助け合えばいいのだから。

と言っている。フランス人の「パートナーシップ」は徹底しているし、また、フランスは伝統的に棄児が多かった。

(『ココ・アヴァン・シャネル〔上〕より)

ルソーの結婚奨励策は、あまりに多い棄児を、ちゃんと親に面倒を見させるためであった。恋愛の国は棄児の国であった。

ルソーとて例外ではない。

アメリカはアル中とそれによるDVが伝統的に多い。