カントがやっぱり鬼門で、ごちゃがごちゃ言い過ぎだろうと思う。
オッカムの剃刀ならぬ、「足立の剃刀」があるとわかりやすい。
さすが名門早稲田の理工で長年教えてこられただけある。
素人にわからない議論をしても仕方がない、ということで、ミドルマン的な役割で、啓蒙書を認めていらっしゃるのだが、直観主義についても解説している。
(意訳すれば)「ごちゃごちゃ行ったところで、矛盾しなければ、誰も困らない」と明言しているところに胸のすく思いで、まさにこれをはずしては何も言えないと思う。
そうなのだ。
- 直観主義論理は、古典論理の拡張である訂正※
直観主義論理は、古典論理の代替である - 古典論理は実在論に立つ
- (古典論理で完全性定理を証明した(ヒルベルト・プログラムを肯定的に解決))確認※
- (選択公理)確認は古典論理で解決できないために、直観主義論理を必要とした
- 直観主義論理で不完全性定理を証明した(ヒルベルト・プログラムを否定的に解決)
※P.304『論理学をつくる』
そして、実際に,古典論理NDのtheoromの範囲と,直観主義論理NJのtheromの範囲とは食い違っている(後者は前者の一部に過ぎない※)。だから,直観主義論理と古典論理派異なる論理体系なのだ。古典論理で認められる論理的真理の一部を論理的真理とするのはやめましょう,と言うわけだから,直観主義論理は古典論理にとって代わろうとする代替案(alternative)としての非古典論理だと言える。
※PP.292-293
ようするに直観主義論理は古典主義論理の自然演繹NDの規則からDN(二重否定除去)を取り除いて,AB(矛盾規則)に取り違えたものである。直観主義論理のための自然演繹をNJと呼ぶことにする。
P.292
「直観主主義数学という排中律や背理法の無制限の使用を排除した数学を始めた」
「直観主義数学でだって証明は行われるのだから,普通の数学の論理が古典論理であるのと同じような意味で,直観主義数学にもそれなりの論理があるはずだ」
※P.148,『ノイマン・ゲーデル・チューリング』
「実際に、スコーレムの論理から完全性を導くためにには,「非有限的な手法」が必要とされるが、論理主義と形式主義の流れの中にいた論理学者には、この方法が見えなかったのである。」
と、素直にまとめればよいではないか、と思う。ここで問われているのは「無矛盾性」である。要は、「選択公理は矛盾なく独立である」のだ。この選択公理こそが、ものすごく乱暴に言えば、「好きな方を選択していいよ」という判断に係ることで、それでいて「矛盾しない」と証明されてしまったことが、大問題だったのだ。
「 どう 選べばいいんだ」ということで、ノイマン的には、「経験だろう」となった。
これは或る意味自然に感じられて(正しい理解かはともかく)、直観主義論理とは、古典論理の依拠する超越的存在である実在を措定できずに、カント的な判断に係ることだからである。要は、 実在とは 、 カントに依れば 「判断に係らない」とされたものが、カントに依れば 「判断に係る」ことになってしまった。
カントの立場は、このように経験的実在論から出発し、超越論的観念論に至るというパラドキシカルなものである。
(選択公理と関係あるか知らないが)例えば、虚数が、存在しないが観念ではなく、実在なのは、計測できるからである。「判断に係る」とはこのような「経験」を伴っている、ということらしい。反対から言うと、数学に関する限り、(純粋に演繹的に導けばよく)そのような経験(帰納的独立性)は不要だと考えられていたのだ(カント・プログラム)。
要は、直観主義論理にとって選択公理は「具体的な問題」であり、直観主義論理ととって不完全性定理は、おそらく(よくわからないが)、「一般的な帰結」である。
これの何が大事か。
よく数学では、「抽象」であるとか「一般」であるとか言われるが、「具体」はなかなか言われないからだ。この「具体」がどれほど大事か?
算数の問題ではない。
ヒルベルトの23の問題のうち、第9問題と第12問題(に関連した世界的な難問)を肯定的に解決した[2]。
高木は多大な貢献を果たしたが、
しかしながら、類体論の中では の具体的な構成は、まず最初にクンマー理論を使ってより大きな非アーベル拡大を構成して、それからアーベル拡大へ落とし込むことによりなされる。従ってアーベル拡大のより具体的な構成方法を問うているヒルベルトの問題の解にまでは至っていない。
まだ解かれていない。具体化できていないからだ。この意味がピンと来なかったが、(もちろん、今でも、問題の意味はわからないが)、こういうことではないか、と思った。ゲーデルには、それができたのだ。
カントは、ライプニッツ、オッカム、ルターの後に連なり、ウィトゲンシュタインへ流れる「神秘的」なドイツ哲学、言語哲学の系統に属していると考えられ、上のようなこととは別に、むしろ、ヘレニズム、ヘブライズム、ゲルマニズムの統合による「ヨーロッパ世界」のルネサンス哲学の系統に属していると考えるべきである。
各哲学者の細かい違いは、時代背景による、と考える方が素直ではないかと思う。
悟性とか感性とか、科学の時代には、それこそ「ただの「名」」に過ぎない。
「実在」と「実体」を区別するのは、それこそ、プラトン的数かアリストテレス的数か、或いはステヴィン的数か、という違いに過ぎない。本質論である。
いずれにしても「すべて実在論」である。
こうなると、問題は、「主体」と「超越」、そして「判断」である。
それが「心身問題」を具体的に捉える。
よく「不完全性定理ほど、誤解されていることはない」と数学者は言うが、
と思うのであった。
日本の「戦後」は、狂っていたのでなければ、ただの時間の浪費だったな。