アリストテレスからラッセル、ラッセルからゲーデルへ

実は、

には載っていなくて、

には結構載っています。たいていは「名辞」に等しいようですが、メタファーとしては「容器」で、すなわち入る(含まれる)/入らない(含まれない)で対象の操作を決定でき、境界を持つ(排他関係を決定できる)ようです。

だから、ソクラテスは死ぬのです。ソクラテスは〈人〉の範疇に入るからです。

面倒くさいのは、〈ソクラテス〉も範疇を構成することです。この〈ソクラテス〉のような個々の実体を一次基体、それ以外の〈人間〉のような実体を二次基体と呼び、二次基体を「種類」と呼ぶとき、「関連する知識がある」かどうかで、区別できるようです(p.68,3.2.2概念と種類,第3章概念と意味,第Ⅰ部基礎となる考え,『言語における意味』)。こういった議論は、確かに、ラッセルも王の名を使ってしていました。
これを〈アリス〉と考えて、内包関係を考える倒錯(「アリス」という概念は他のどんな概念を含意するか)を物語にしたのが、ルイス・キャロルことチャールズ・ドジソンだったようです。

説明では、これのあとに、典型理論が出てくるようです。典型理論は、範疇論では1/0の二値評価に過ぎななかった1の対象群に順序を与えることで、範疇論に内部構造をもたらしましたが、境界を持たなかったために、排他関係が説明できなかったとのことです(P.82参照)。

というのは、科学的認識である以上、それは因果性の範疇の使用ということと、どうしても関連をもたざるを得ない」

わかりやすくは、

  1. というのは、科学的な概念操作である以上、因果性で説明される(操作群と関連を持つ)はずである

要は、「概念」は(自然文で言及されるが)論理的な操作で〈範疇〉を使用する、くらいの意味でしょうか。


形式論理学では、

理論の範疇性の定理

 以上のことから分かったのは,同型なモデルは同じ論理式の集合を充足するということだ。ではこの逆は成り立つだろうか。つまり、ある論理式の集合を充足するモデルはいろいろあるだろうが,それらは互いにみな同型だろうか?
 この答えは「そういうときもあるし,そうでないときもある。どんな論理式の集合を考えているかによる」というものだ。ここでは次のような定義をしておこう。

【定義】理論Kがm-範疇的(m-categorical)である(mは任意の基数) ⇔ 議論領域の濃度がmであるようなKのどの2つの正規な(つまり「=」が同一性として解釈される)モデルもつねに同型である

P.335,12.4.3理論の範疇性とノン・スタンダードなモデル,モデル同士の同型性,古典論理にもまだ学ぶことがたくさん残っている,第Ⅳ部論理学はここから先が面白い!進んだ話題のロードマップ,『論理学をつくる』

そして、範疇が、「モデル」に言及していることからこれがゲーデルの完全性定理と関係し、また、不完全定理の理解に求められることが見えてくる。

この公理(註数学的帰納法の公理)が範疇的でないということだ。

P.182,9.7同型性,範疇性,完全性,第9章不完全性,『形式論理学—その展望と限界』

 公理の集合が範疇的であるといわれるのは,それらがすべて真になる解釈はどの2つとっても互いに同形なときである。
 2つの解釈が同形であるというのは,それぞれをグラフによって図示したときに,各ノードの名づけ方を除けば,2つのグラフが同じになるということである。

P.183,〃

要は、0と連続数にそれぞれ成立することで、枚挙的に証明する数学的帰納法の任意の部分を(有向)グラフで図示したときに、どの(有向)グラフを交換してもすべて真になるわけではないということである。数学的帰納法の、ある部分をとって真と成るグラフAと、別の部分をとって真と成るグラフBとを見比べたときに、別の形となっているAとBを交換しても(もとの判定に用いた数を入力して)真になるとは限らないということだ。
この同形ではない(有向)グラフをともに含意する解釈できるゆえに、数学的帰納法の公理は範疇的ではないと判断されるということのようだ(範疇性判断→解釈における「完全性」。つまみ食いなのでよくわからない)。