「一揆の原理」の二面性                   数理歴史学へのいざない~「物語」から「数理」へ

 

一向一揆は、「1対1」の相対的な人間関係の集合(兵站;ネットワーク)であって、作戦行動のとれる集団ではない。なぜ、10万(乃至20万の、いつでも補充可能な)一揆勢が、高々2乃至3万程度の上杉勢に負けたのか、戦略的(1)に勝つ(この場合、戦闘による勝ちではなく、戦闘を避けて政治的な勝ち。)の方がリーズナブルだからと思っていたが、質的な違いもあったようだ。

謙信にしろ、誰にしろ、倶利伽羅峠を制し(木曽義仲以来、倶利伽羅峠を制した者が、京に出られる。)、能登、金沢から加賀に下るにしたがって、仮に謙信が生き残ったとして、最終的には、戦略的(2)要請(この場合、マッピング。)しかない生産性の低いへき地の統治に、「殲滅」を選ばなかっただろうか。

つまり、一方は「兵站しかない集合」、一方は「戦闘能力しかない集団」、すなわち、一揆勢と上杉勢が、{前衛,後衛} の 配分が、

 

{ 上杉 一揆 } = { 2 0 0 10 }

 

のとき、戦闘をする/しないが、戦闘(戦術的)/統治(戦略的(1))にそれぞれ勝ち/負けの利得表を得る時に、「殲滅」は合理的か?という問いである。

能登、金沢、加賀で、利得表が異なる。

たったこれだけのことに過ぎなかったと思う。
むしろ、上杉謙信が、仏法を掲げてなお、作戦行動の採れる集団をなぜ構成できたのかが興味深い。

島原の乱 - Wikipedia

で、一揆勢が、中世の「焼き討ち」や勢いに乗じた戦いに終始したことに注目されてよいと思う。

一揆(中世的集合)のいくさ島原の乱でようやく終わったのだろうと思う。
それは結局、多重な中世的支配をリーズナブルな程度に受け入れるがゆえの「応仁の乱」の終焉だったと思う。それでも仏教は残った。多重支配を多層的な支配に幕府が変えたからである。しかし、それは明治政府が便宜的に幕藩支配を整理した「士農工商」ではなかった。ヒエラルキーというより、もっと「名分的」であったと思う。士には士の分があり、百姓には百姓の分があった。名に要請される社会的動機とでも謂えることで、従来考えられてきたよりも、身分異動は起こっていたようである。ただ、その分を超えた社会的動機を持ってはならない。仏法には仏法への要請が「ある」ことになる。


これはゲームの理論が万能という主張ではなく、従前の歴史学が、文献間の解釈を、研究者の自由な創作で埋めていたところ、より説得的な解釈の導入に有益だろうという主旨である。