日本医科歯科大学の清水研究室の院生募集要項が物議を醸しているということで。
- SSH(SuperScienceHighSchool)を通じた高大接続が、制度開始直後に見られた興味対象に従った闇雲な高度化ではなく、数学であるならば、数学基礎論からの高校数学の理解に帰着しているようである(大学初年度への架橋)。
- 医学部受験(関西医大)ですでに出題されている
- 大学無償化が現実化する以前に、受験生の医学部受験へのシフトが進むなど、入試マーケットの需要変化が起きて過年経つ
- 新受験方式で受験した親世代がセンター試験導入時の世代に重なる
- この人口のボリュームゾーンを抱えた世代は、高校進学にあっては、などの新名門校を産み、大学進学に在っては、青山学院大学の躍進を生んだ。
- 前者は、マーケットの需要圧力に棹差して、偏差値を利用した自己実現であり、後者は、リスクヘッジの心理を利用した(受験)ポートフォリオである。
- すなわち、現在の当該校の偏差値に数ポイントプラスした募集をかけると、需要圧力からその偏差値を満たす受験生があつまって、結果としてその偏差値に見合うのであり、また、複数受験を前提として、受験日程と受験科目に応じた総合的なコストを考えた場合、有利なポートフォリオ・バスケットを形成して受験生に選好されやすくなった次第である。その結果、英語に関しては、東大を凌いだということであった(研究者に依れば、東大の「面目」を一貫して保ったのは、数学であった)。
- 似たようなことが、現在、医学部受験で起きているのかもしれない。
- 日本の医学部も、戦前から、独自の権威を保っていたが、昨今の状況には世界的な影響も見られるのではないかと思う。
- ワクチンが新しい産業として
- (今まで以上に)期待され、競争が激化している。
- ビッグデータ解析が現実化したためである。
- 産業を牽引する主体として、かつての「工学部」のような存在に「医学部」はなりつつある。
- そのような社会背景を背負う現在にあって、あらためて「アメリカニズム」を考える必要に迫られている。
- 「ハーバード的」とは、「競争的」であり、端的には「足きり」に現れる。必ず落伍者を生むシステムである(成績が下位数%に入らないことが、進級の要件となっている)。
- 彼らは、基本的に自由主義者であり、道具的な社会改良主義者である。
- また、それは、実践的な「新結合による創造」で、社会的に実現される(プラグマティック)。
- 時間には制限があり、利用資源には限界がある。したがって、資産形成がベースと成る。その意味で資本主義的である。
- 彼らは意思主義者と言えるが、厳密な意味で、個人主義者と言えるのか。もとより自由主義者であるし、帰結主義者ではあるかもしれない。
- 「フェア」なルールの下での「マネージメント能力」が尊ばれる※。
- 彼は、そういった意味で「ハーバード的」であり、蛮勇的な「ボス」として成功を収めるかもしれない。その場合、アメリカ的な成功の果実として、利益を独占できる。
- そうでなく、明治の日本がエリートを階層的に形成したように、指導者の指導者として最も上位に君臨するかもしれない、かつて、帝大が私大(専門学校)を「指導」の名の下支配したように。
- ともかくも、医学部受験が入試の華と成り、新入試制度も発足した。その流れに在って、架橋的な教材をすでに手にしている「エリート高校生」が、有利な状況にあるかもしれない。すなわち、すでに経過依存的な社会になりつつある。
- 振りかえって見れば、よい教材はマーケットに十分「ある」が、情報の非対称により、高校生にはアクセスが困難かもしれない。
- 時間制約の中、親の世代の資産形成を通じた、マネージメントが試されている。
- それについて、相当「割り切った」考え方を提示している。
- つまり、研究室に入るために大学入試に再挑戦することまでできるかが問われるのであり、また十分な社会実現を反映した(人生の)期限を切ることで、早期のアクセスを通じた自己実現の意味を鋭く問うている。
- これらは「信頼できる自己」による「リスクへの決断」と「社会的な実現」に基礎づけられる「ビジネスエリート」のモデルである。
※日本の真珠湾攻撃が「スニークアタック」であり、アメリカのフライングタイガー(による義勇軍)が「参戦」でないのは、ルールの自己実現の問題である。アメリカは「中間的な振る舞い」を可能とすることができる。それは未だ「スニーク」でないのだ(価値が「付与される」という意味で決定されない。構成的社会観のひとつと謂える)。
望ましい自我の形成には、実践的な行為形成に関する「ホーリズム」(唯一操作可能な〈私〉を通じてのみ〈私〉に操作不可能な利益が実現されうる、非対称な「期待」の問題。)と主体的な意味形成に関する「ロマンチシズム」(不可逆的な人生の意味は〈私〉がいつでも自由に決められる、不特定な「満足」の問題。)の2軸で説明されなければならないが(いずれか一方のみだと、説明能力が不十分で、人格的に欠落していると言える。)、制約を明らかにすることで、時間軸に関して、道具的な選択がより鮮明に合理化される。これは社会の持つメカニズムである。
(『オリバー・ヘヴィサイド: ヴィクトリア朝における電気の天才-その時代と業績と生涯』より)