ちなみに、日本で、保守思想として採り上げられること多いバークであるが、これは「日本で採り上げる」場合、日本の特殊文脈が付随しているのではないかと思う。
つまり、明治期の「英學派」である。山縣有朋から(実のところ、山縣は、軍人であるし、何でも屋だけれど。—これは何度でも言うけれど、「統帥権干犯問題」は、ワーテルローでナポレオンに勝利した初代ウェリントン公アーサーウェルズリーから考えないとわからないと思う。要は、議会制民主主義の転換期だったんだね。この人、アイルランド貴族だったんだね。へーって感じ。)、平沼騏一郎まで考えないとわからない。その間に、学問的には英学流独逸学派(自由主義イェリネック)、政治的には師匠(一木喜徳郎)筋の近世近代派がごっちゃになって、独学的な、美濃部達吉が居る。

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福沢諭吉伊藤博文、金子堅太郎は、どうかというと、福沢はむしろ「蘭学派」の時代であるし、伊藤は山縣と同じで「なんでもあり」だし、金子はハーバード・ロー・スクールを出たけれど、実はそこで、英国法と歴史法学をしっかり学んだらしく、伊藤の腹心だから、大日本帝国憲法の起草あってはドイツ寄りでも厭わなかった。

要は、はっきりいうと、「保守」=歴史法学と断言して差し支えないと思う。
このとき、歴史法学は、ある意味の通過儀礼で、近代国家建設には避けては通れない道だったんじゃないかな。だから極めて近代的な営みで、日本でも復古主義ってあったけれど、そういう文脈自身とはわけて考えた方がよいと思う(対象化する技術が要るかな)。

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中島なんかは、わけのわからんことを言うているんだね。

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『らんまん』はすごく面白かった。
朝から大河ドラマやっていた。
夜の大河ドラマは、ちょっとかわいそうだったよね。
もうね王道だから、基本的な「講談構造」が変えにくいんだよね。
変えようとすると、三谷監督みたいに、舞台演出になっちゃって、結局「講談」じゃねえかって。能のテーマを歌舞伎でやるみたいなね。

本当は、学術的な進展を織り込んでくれる方が面白いんだけれど、それは難しいというね。

『らんまん』は素直に切り込んで行けたかな。
個人的には、要潤で、(米学派から)独逸学派への転換期かな。そこらへんをうまく演出していたと思う。当時の「理系」の扱いもあったけれど、植物学界隈では、綺麗に消えるんだね。

だって、

大久保三郎 (植物学者) - Wikipedia

って、

大久保一翁 - Wikipedia

の子なんだね。維新の功労者だよ、この人。
一翁が亡くなったのが、 明治21年1888年)。三郎が非職となったのが、1895年(明治28年)。関係があるかわからないけれど、独逸学派の席巻が見て取れる。
ドイツは学統支配(排除)が強いようだね。

ちなみに、「ドイツ的」なこととして、イチョウ精子の発見が物語のテーマとなったけれど、「精子」は、アリストテレスの「自然学」において、重要なファクト。まさに、生命の分類に関すること。「植物」「動物」「中間の構成物」。

そういう隠れたテーマもあったのだ。

クリスティーン・ラッド=フランクリンはアリストテレス論理学を完成し、(その「不可能性」@アリストテレスの論理から)ヴィトゲンシュタイン(の「真理値表」)を準備した。

クリスティーン・ラッド=フランクリンが論文を発表したのが、明治16年(1883年)。
その後、(実験心理学の方で職を得て—色覚の研究で、こちらはデカルトと縁が深い—、夫とともに)渡独(1891-92)もするのだが、そういう時代だったのだ。
1891年と言えば、三好学がドイツのライプツィヒ大学へ留学した年だ。1895年に帰国して教授に就任し、大久保三郎を非職にした。

クリスティーン・ラッド=フランクリンがゲッチンゲン大学に居たころ、ライプツィヒ大学に居たフェリックス・クライン1886年から数学の教授を務めており、クラインは1895年にダフィット・ヒルベルトをケーニヒス大学から招聘した。エアランゲン大学の数学研究所に居たエミー・ネーターが、この2人によって、ゲッチンゲン大学に招かれたのは、1915年である。

 1902年からのゲッチンゲンでの共同研究として,ミンコフスキーとヒルベルトは物理学の数学的な研究を取り上げます. アインシュタイン特殊相対性理論の発表後,実に早期にその本質を数学化していったのは,既に同様の研究をしていたからです. 二人にとって,数学が科学の女王として全科学を記述できるようにすることが一つの目標であったのではないかと思われます. 数学の抽象化によって数学は大きく変貌を遂げたように,新たな数学によって世界自身の記述も変移されてゆくべきと感じたのだろうと推測されます.

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女性の立場が厳しいままでありつつ、それでも科学の方は変わりつつあった。

アリストテレス論理学の完成者としてのクリスティーン・ラッド=フランクリン

『論理哲学論考』の先駆者としてのクリスティーン・ラッド=フランクリン

デカルトの感覚知覚理論

この実験心理学者のChristine Ladd-Franklinの略歴 / 伝記 | 心理学、哲学、そして人生について考えること。

Christine Ladd-Franklin ’1869

1794年、王立協会フェローに選出される[2]。1801年に王立研究所の自然学の教授になり、医学の面では乱視や色の知覚などの研究をした(ヤング=ヘルムホルツの三色説)

トマス・ヤング - Wikipedia

赤字強調は引用者。
クリスティーン・ラッド=フランクリンは、このヤングの研究を、進化に関する革新的なアイデアを以て前進させた(そのせいか、「エーテル波」の主張もしている。トマス・ヤングは1805年の「ヤングの実験」で有名で、光の波動説を唱えた)。

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