markovproperty.hatenadiary.com

デカルトの蠅」について説明を足そうと思ったら、これが意外に面倒くさかった。

まさにルネサンスとも関係するが、自然発生説が有力だったからだ。

蠅(はえ)が描かれた絵画12点。だまし絵の技法や腐敗の象徴として登場する虫 | メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

自然発生説 - Wikipedia

なぜこれが重要かというと、ひとつには、それを唱えたのが「哲学者」の名を冠せられたアリストテレスだからであり、ひとつは、無から有を生み出すのが神だからであって、これがキリスト教の神が(キリスト教の)神たる理由だからである。

そして、自然発生する”genera”(「類」※)として分類されることにより(卵から生まれる「類」もある。 生命の 、、、 自然発生説の否定は、この卵から生まれる「類」への転属—自然発生する生命「類」の廃止—から始まったらしい。フランチェスコ・レディは微生物の 、、自然発生説を否定していない)、「人類」の救済論とも関係するからである。

そして、生命だろうが物だろうが「延長」を持つ被造物として同相であるが、理性を持つ人間は動物と異なる。デカルトの「心身二元論」は結局心身  と一元に帰着するのであった。

※genera and species 「類」と「種」の2分類だったようだ。

al-Ghazali , Abu Hamid Muhammad . The Incoherence of the Philosophers, 2nd Edition (English Edition) (p.199). Kindle 版.

そもそも「属」と「種」は、アリストテレスの論理学に端を発する語である。ある特定の事物を類似により集めたものを「種 (species)」としたとき、それをさらに一般化したものを「類 (genus)」という。例えば「動物は生物の一である」と言ったときは動物が「種」で生物が「類」であり、「昆虫は節足動物の一である」と言うときには昆虫が「種」で節足動物が「類」である。

属 (分類学) - Wikipedia

さて、この画は、ドイツ出身の画家によって17世紀に描かれたとのことである。

これは先のリンク先では、象徴的に読まれているが、ウジやイモムシ(これら昆虫の幼生)やカタツムリは自然発生類だったようだ。ただ、ChatGTPに聞いたところでは、蝶と蝶の幼生は違うらしい。イモムシはどっちなんだ、という話である。
蛙は両生類であり、両生類は「動物」「植物」「中間の生物」のうち「中間の生物」とされたとChatGTPは言っている。

後ろに居るのは蛇だろうか?

(24) Moreover, we have seen genera of animals that are [spontaneously] generated from earth and arc never procreated—as, for exam- 20 pie, worms—and others like the mouse, the snake, and the scorpion that are both (spontaneously] generated and procreated, their generation being from the earth. Their dispositions to receive forms differ due to things unknown to us, it being beyond human power to know them, since, according to [the philosophers], forms do not emanate from the angels 25 by whim or haphazardly. On the contrary, there emanates to each receptacle only that to which its reception is specified by being in itself disposed to receive [that thing]. [Now,] dispositions vary, their principles, according to them, being the configuration of the stars and the differing relations of the heavenly bodies in their movements. 30

(25) From this it has become clear that the principles of dispositions include strange and wondrous things—so much so that the masters of the talismanic art have arrived, through their knowledge of the special properties of mineral substances and knowledge of the stars, [at the ability] to combine the heavenly powers and the special properties of minerals. 35 They have thus taken certain forms of the terrestrial [properties] and sought for them a specific horoscope, bringing about through them strange things in the world. Thus, they have at times repelled from [one] town the snake and the scorpion, from [another] town the bedbug, and so on to matters known in the talismanic art.

al-Ghazali ,  Abu Hamid Muhammad . The Incoherence of the Philosophers, 2nd Edition (English Edition) (p.302-303). Kindle 版. 

—「」内の英文を日本語に正確に翻訳してください

(24) さらに、我々は地から発生し、決して生殖されない動物の種を見たことがあります。例えば、虫などです。また、ネズミ、ヘビ、サソリなど、地から発生し、かつ生殖される動物もいます。彼らの発生は地からです。彼らが形を受け入れる気質は、我々には分からない要因によって異なります。それは人間の力では分からないことであり、哲学者によれば、形は天使から気まぐれや偶然に発生するのではなく、各受容体にはそれを受け入れるための特定の受容が備わっているからです。[今では、] 気質は異なり、その原則は彼らによれば星座の配置と、天体の動きにおける異なる関係に由来しています。
(25)これにより、配置の原則には奇妙で驚くべきことが含まれていることが明らかになりました。これほどまでに、タリスマンの芸術の達人たちは、鉱物物質の特別な性質と星の知識を持って、天体の力と鉱物の特別な性質を組み合わせる能力に到達しました。 35 彼らはしたがって、地球の特定の形態を取り、それらに特定の星占いを求め、それを通じて世界で奇妙なことを引き起こしました。したがって、彼らは時折、ある町からヘビとサソリを追い払い、別の町からノミを追い払うなど、タリスマンの芸術で知られている事柄に至るまでさまざまなことをしました。

ベルゼブブ - Wikipedia

こちらの訳では、

 次にわれわれは、ミミズのように土から生まれるが、自らは増殖することのないさまざまな動物を見ている。また、動物の中には、鼠や蛇、サソリのように単独で生まれ、そして増殖するものがある。単独で生まれるのは、土からであり、それらが形相を受け取る態勢はさまざまに異なるが、われわれの目につかず、人間の能力では知りえない事がらによるのである。というのは、彼らによれば、形相は天使から、好きなように、また恣意的に流出しているのではなく、あらゆる基体に対して、それ自体の準備ができているがゆえに、それの受け入れが決定されたものだけが流出するのである。この準備はさまざまであるが、その原理は、彼らによれば、星辰の交錯であり、天体の運動における関係の相違である。

 以上のことからすでにあきらかなように、受け入れ準備のための諸原理の中には、不思議な驚くべきことがある。そこで、鉱物体の特性についての知や、星についての知から、呪符の専門家は、天上の諸力を鉱物の特性と結びつけ、この地上的なものから継承を取り出し、それらに相応する特定の星を探し出し、それによって地上に不思議な事がらを生み出す。〔こうして〕たぶん、彼らは蛇やサソリを町から追放したり、南京虫を町から追放したり、といったような護符学から知れられるようなことをしたのである。

P178(275-276),[第十七]問題,[第二部][自然学]

これは問答方式で、問いに対して答える体裁をとって、「哲学者の自己矛盾」を明らかにする企図がある。

ここでの「彼ら」とは、

第三序 次のことを知るべきである。われわれの目的は、哲学者たちに善意をもち、彼らの道が矛盾のない完璧なものであると信じている人に対して、彼らの自己矛盾の諸相を明らかにし、警告を発することにある。

P7-8(26-27),第二序-第四序,〔はじめに〕

哲学者たちであるが、

〔第一〕 序
次のことを知るべきである、哲学者たちの違いを語り始めると長くなる。というのは、彼らの対立は長いし、その論争は多く、その見解は多岐にわたり、その方法は相互に異なり、対立しているからである。そこでわれわれは、哲学者その人、「第一の師」(al-mu’allim al-awwaal)であり彼らの領袖その人の思想における矛盾を明らかにすることに限定しよう。彼こそは、彼らの諸学を整理し、洗練したと言われる人で、また彼らの見解の中から余分のものを除去し、彼らの思考の原理に最も近いものを選んだ人、すなわちアリストテレスである。

P5(21),〔第一〕序,〔はじめに〕

〔第一〕序で謂う「彼ら」は

 さらに、アリストテレスの議論の翻訳者の言葉自体が歪曲や変更を免れず、解釈や解説を必要とし、ついにはこれがまた彼らの間に対立を生む。イスラームの哲学者たちの中で最も信頼できる伝達者・探究者はアブー・ナスル・ファーラビーとイブン=スィーナーである。そこでわれわれは、彼らが選び、彼らが真実とみた誤りのリーダーたちの立場を論破することに限定しよう。というのは、彼らが無視し、あえて追求しようとしなかったことは、まったく取るに足りない(引用者註:ママ)問題であることに異存はなく、長い議論によってわざわざそれを批判するには及ばないからである。そこで知るべきことは、すべての学説に議論を広げないように、これら二人が伝える限りの哲学説の批判に限定されることである。

P5(22), 〔第一〕序,〔はじめに〕

「これら二人」に代表される。

そうして、
「答—君たちは、預言者自身の霊力によって、降雨・雷光・地震が起こる可能性を認めるが、それらは彼から起こるのか、それとも別の原理から起こるのか。それについてのわれわれの主張は、これについての君たちの主張と同じである。」(P177(274))

「君たち」に答えられるのであった。


こういった具合で、デカルトのような、語りつくされたはずの有名人の業績を語ろうにも、環境が整備されていないと感じることも多いのだ。

また、例の「白馬非馬」は、ここで、馬とは関係がないが、「黒と白の結合は不可能である」として、実のところ、「「不可能なもの」とは、神の力の対象ではないもののことである」(P.179(277))ことから、次のように説明される。

なぜなら、基体に黒の相を肯定することから、われわれは白の相の否定と黒の存在を理解するからである。白の否定が黒の肯定から理解されれば、白の肯定と同時にそれを否定することは、不可能となる。

P.179(278),〔第十七〕問題,〔第二部〕〔自然学〕

しかし、偶有と実体の間には共通の質量がなく、また黒と力の間にも、またほかの種の間にも、共通の質量がない。したがって、このような転換は、この観点からは不可能である。

P.180(279),〔第十七〕問題,〔第二部〕〔自然学〕

白馬非馬 - Wikipedia
兒説 - Wikipedia
公孫竜 - Wikipedia

彼らは、紀元前3乃至4世紀くらいの人たちであるし、「自然学」として、少なくとも11世紀までは、このような議論は有効だったのだ。

地中海世界」、或いは、それをもたらした騎馬民族の異動を考えたときに、世界は私たちが考えるよりも「狭かった」のかもしれない。

近代国家史観はその意味でも、再検討が図られてよいのではないかと思う。
就中、中国、朝鮮半島の影響ばかりを気にするのは、もはやただのナンセンスである。
ただし、近江商人の「複式簿記」の成立を考える際には、その前史として浄土教仏教徒道教或るいは儒教との習合宗教。中国の仏教は、隋の時代から—すなわち日本に初めて伝来したときから—、習合的である。)の受け入れを考えた方がよく、これなどは、要は儒教であるから、江戸時代における、仏教から儒教への「国教」の転換を考える際にも、有効であるように思う(実は、戦国大名、武士たちには、禅宗に帰依する者も多かった。江戸時代に起こった「赤穂問題」がなぜ、あんなにこじれたかというのは、実のところ、一つの価値体系に排他的に従うのが「当然」ではなかったからかもしれない。これは中世が「アナーキー」と言われることとも通じる。中世では重複的な支配が普通であったが、それを整理する課程が戦国期であり、結局、複層的支配に統合したのが江戸幕藩体制であり、しかし、支配は直近の関係を縛るという「1対1原則」が維持されていたから、関係の遠近で振る舞いがことなることも起きたようだ)。つまり、やはり中国の影響も、私たちが考える以上に、大きかったかもしれない。

別階層の人たちのことは興味もないし、知らなくて普通だったのだ。