Roxana

今日チコちゃんやっていない。つまらん。

 

markovproperty.hatenadiary.com

僕なんかは70年代に生まれた人間として、60年代以前の生まれの人間がいかに「わからない」(「わかっていない」ではなく「わからない」である)かをよく言うのであるが、それは自分についても当てはまる。

つまり、

スシロー迷惑行為“加害者”晒し おでんツンツン男が持論「まだ高校生だぞ」「ちゃんと更生すれば良くない?」
Yahoo!ニュース

こういった問題を見たときに、直感的に、

電車の事故は賠償しなくてはならないのか。 実際の事例と基本的な考え方
ベリーベスト法律事務所 新宿オフィス

を思い出すのであるが、それが正しい見取りを与えているかがよくわからないのだ。

これなども高額賠償が社会問題となってこのように「落ち着いた」のではなかったかと拙い記憶から思うのだが、果たしてどうだったか?知らない。

しかし、今回の所謂「SNSテロ」から考える「賠償額」の見積もりは、「株価の下落」という「潜在的な価値の毀損」である点と、企業価値を反映すると説明されるが一方で投機対象として(店頭価格という)「見かけの価値(の表示)」である点がひっかかり、誰かに説明してもらわないと「わからない」のは言うまでもなく、また、これがやはり同じようにSNSによって「知らされている」点から考ええると、すでに巻き込まれているからだ。

「物理的存在」に囲まれて生まれた70年代生まれからすると、そのような世界の「ネイティブ」に聞いてみないとピンと来ない。或いは、聞いたところでピンと来ないかもしれないが、「ピンと来ていない」ことすらわからないかもしれない。

すなわち、60年代以前の生まれには、常々そのような感慨を抱いているのである。


Incoherence of the Philosophers

”probable”7か所

”generosity”8か所

”mad”2箇所 ”flight”0箇所

For this reason the human can imagine a horse that flies, [or] an individual whose head is the head of a man and whose body is the body of a horse, or other com- 25 positions [of this sort], even though the likes of these have never been seen.

al-Ghazali , Abu Hamid Muhammad . The Incoherence of the Philosophers, 2nd Edition (p.311). Kindle 版.

flies”は述語であり、”(the)reason the human can imagine”の具体例(”this”)である。

(4) As regards the third [inner sense], this is the faculty which in animals is called the imaginative and in humans the cogitative.

al-Ghazali , Abu Hamid Muhammad . The Incoherence of the Philosophers, 2nd Edition (p.310). Kindle 版.

the faculty”のうち”(called)in humans the cogitative”である。

It is more appropriate that this faculty should be attached to the motive faculty, as will be discussed shortly, [and] not with the apprehending faculties.

al-Ghazali , Abu Hamid Muhammad . The Incoherence of the Philosophers, 2nd Edition (p.311). Kindle 版.

この”the motive faculty”がreasonableであり、”the apprehending faculties”と対比されているらしい。

以前


これは唯名論と関係が深いとのことである。

ある英訳本などは A white horse ”is not” a horse などと訳している。

P.76,「白馬論」―排他的選言,唯名論者たち―(一)公孫竜,第二章古代中国人の論理学意識,『中国人の論理学』
加地信行著,中公新書

なぜか、 White horse ”is not only” horse ,”but” white. だからである。

この点、加地も誤解しているようなニュアンスで採り上げているが(つまり、加地は、形式論理と日常論理を区別したかったのであるところ)、

さて、公孫竜は、さきほどの「名実論」のところでも触れたように、現象の背後に存在するものなどは認めない。だから、白さというような普遍の存在を認めない。ただ、白い色をしているその白いこと、という現象だけしか認めない。

P.78,同前

どういうことか

白馬ということばを使うものの、その意味するところは〈白い〉という色を表すということなのである。
(略)
「白馬ハ馬ニアラズ」のすぐあとで、「白というのは、それによってある物の色に名づける手段である」といっているからである。

P.79,同前

ここで混乱する。
それは連言でないのか?すなわち、’white’ and ’horse’(’white’⋀’horse’)ではないのか、ということである。


ということを言ったが、ガザーリーがこれに答えている。

P.188,第七問題,『哲学者の自己矛盾』

答 — これはまさに君たちが属性について述べたことと同じであり、われわれはすでにそれに対して反論している。これらすべてにおける欺瞞の根源は、「必然的存在者」という用語にある。そのようなものは捨て去るがよい。もし「必然的存在者」の意味が、作因者を持たない無始の存在者ということでなければ、われわれはその存在を証明するものがあるとは認めない。もしこれがその意味だとすれば、「必然的存在者」の用語は廃棄されるべきであり、そうすれば、原因がなく作因者もいない存在者に多用や差異性は不可能であることが明らかになる。だが、それを証明するものはない。彼らの質問だけが残る、「それ(多性がないこと)は彼が原因を持たないことの条件なのか」と。それは愚かな質問である。というのは、原因を持たないものについて、それが原因もをもたないか、その条件を求めて説明する必要はない、ということはわれわれがすでに明らかにしているからである。

 それは次のように人の言葉と同じである。すなわち、「黒性は色が色であるための条件であろうか。もし条件であれば、赤はなぜ色といえるであろうか」と。そこで言うべきことは、その(色の)本質については、両者(赤と黒)のいずれか一つが条件とされるのではない。つまり、問題は思惟において色の本質を定立することだからである。その存在については、条件はそのいずれか一つということになる。特定の一つである必要はない。つまり、類の存在は、種差があって初めて可能となる。二つの原因を定立し、それによって連鎖を断とうとする人についても同様である。彼は言う。「両者は種差によって異なり、種差の一つが存在の条件であるが、それが特定のものに限定されることはない」と。

赤字強調は引用者。
これが、White horse ”is not only” horse ,”but” white.である。
問題は、これに不定冠詞 ”a” を付けるイギリス人の説明が正しいかどうかである。

このことを加地は

すなわち、「色の認識と形の認識とは異なる」ということである。公孫竜は色と形を同時に認めることはできない、と言っているのである。

P.79,「白馬論」―排他的選言,唯名論者たち―(一)公孫竜,第二章古代中国人の論理学意識,『中国人の論理学』
加地信行著,中公新書

というのであるが、「野球かサッカーか」をたとえに出し、「排他的選言」を、⋀(連言)でも∨(選言)でもなく、「いずれか一方に限り」という、連言に関して意味が空である排他的な2つの事柄に関して選択的な言明(選言)であると説明し、

公孫竜の場合は、色の認識か、形の認識か、そのどちらに限って真であるという考え方、すなわち、排他的選言という場合なのである。色の認識もでき、同時に形の認識もできるというのは、A、Bともに真ということになり、排他的選言としては、全体が偽ということになってしまうのである。
 このように、色の認識か、形の認識か、という二者択一を迫る排他的選言ということが、「白馬ハ馬ニ非ズ」という命題の真相なのである。

PP.80-81,同前

しかし、ガザ―リーの天才性は、そういうことではなく、神と世界を存在と非存在で説明して、「トン・ヘ」(流出論)を否定することに成功した点にある(それを主張するギリシャ哲学者への反論)。すなわち、「意思ある存在(神)」に拠る「創造(論)」である(つまり、宗教は哲学を超えることの説明である)。だからこそ、ガザ―リーは、哲学の擁護者と、長い間誤解されてきたのだ。彼の「アリストテレス」の理解は「プラトン的なアリストテレス」だったからである。つまり、「プラトン的」な説明の批判をするときに、反対にアリストテレスを擁護しているようみ見えたからである(これは文献学的に否定された。新資料が発見され、彼が、哲学を擁護していなかったことが、明らかになったからである)。

面白いのは、加地がロックを持ち出していることである。

この、公孫竜が言い出したところの、色の認識と形の認識とは異なる、という主張は、十七世紀のイギリス経験哲学者、ロックの考え方を思い起こさせる。白紙の心に経験を通して観念が得られる。このようにして得られた観念が単純観念であり、それには二種類がある。すなわち、形のように、対象がそのものが属する客観的な第一性質のものと、色のように主観的な第二性質のものとである。この単純観念を基として、いろいろと組み合わせて複合観念ができあがる、とロックはいっている。

P.81,同前

ロックを覆うホッブズの影をめぐって トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』訳者解題

要するに、この問題に対する彼らの証明は、属性の否定、類的・種差的区分の否定の証明に帰するのである。ただし、それはひどく曖昧で弱いものである。なぜなら、そのような多性の帰するところは単なる用語の問題でしかないからである。

P.192,第八問題,〔第一部〕,『哲学者の自己矛盾』

ここで翻訳が気に係る、「用語」なのか「概念」なのかである。すなわち、論理の問題である。続ける。

いい換えれば、存在する一つの本質を想定することは、理性的に可能であるのに、彼らはいう、「存在する本質のすべては多である。というのは、そこに存在と本質があるからだ」と。

これは誤謬の極みである。そもそも一なる存在者は、いかなるときでも思惟可能である。存在者には必ず本質がある。しかし、本質の存在が一性を否定することはない。

P.193,同前

何を言っているか。

第一者には原因がないからである。

P.194,同前

では何か、(ただ、「一」なる)存在である。

必然者に意味があるのは、ただ原因の否定だけである。

P.194,同前

何を言っているか。「必然」と「必然者」を分けることの「暗愚も極み」(P.194)であることである。「必然」が「否定」であることは「原因」に関して許容される。
しかし、「存在」に関しては許容されない。
しかし、哲学者は「存在」に関して許容して「存在あっても存在者はいない」(P.193)と言うから「自己矛盾」(P.194)だと言ったのだ。
反対から言うと、「一」なる「存在者」に「原因」を求める必要がない。
「原因」を求めたとき、その「存在」は「多」になるからである。
この「必然」が「必然性」なる「本性」であり、「存在」が「本質」であるとき、「本質」と「本性」が同じレベル(タイプ)ではない、と言っているのである。

難しくて十分理解できないことを断ったうえで、説明をするならば、要は、神が「一」であるとき、「一」から「多」が内在的に生じる、或いは(単純に)「在る」乃至認識できるのではなく、神の「意思」によって「無」から「有」を外在的に生じることが、神にはできる、ということである。
したがって、「外在性」という点を「排他的」と指摘した点で加地は理解できているが(「サッカー」と「野球」は互いに外在的である。)、だからと言って、それが完全に「排他的」かというと、白馬だって当然に馬なのである。
難しい話をしているのではなく、「馬」という類と「白」という属性(黒馬、白馬という種差)は同じレベルで話せない(乃至同じタイプとして言及できない)、という常識に過ぎない。
そう考えると、自然に、White horse ”is not only” horse ,”but” white.が受け入れられるはずである。問題は、繰り返すが、これに不定冠詞を付けるべきかどうかである。
難しくないのであるが、なぜか、「主体」と「主語」になるとわからなくなるのが日本人である。
「白」に色の本性を思惟可能とするならば、本質たる存在を思惟可能としなければならないのである。したがって、「色」と「存在」は「同時」に考えなければならない。しかし、「形」もまた「色」と同様である点に於いて、加地は誤解したようである。すなわち、馬は「存在」であって「形」を指示しているわけではない。「色」を以て「色」に関して「一」なる「馬」自身を「多」とすることはできないが、「馬」に関して「色」を以て「多」とすることのできる「連鎖」(順序)の話である。馬には白馬も居れば黒馬もいるが、黒に関して白い黒があるわけではない。また、反対に、白に関して、馬白と豚白は在るかもしれない(ただし、下の「能力」上の問題がある。加地の誤解は、論理上の関係と能力上の関係の混乱に基づくとも言える☟)。
当たり前なのであるが、noy only ,butというとき、この論理的な関係をどれだけ意識して使っているかである。加地にしたところで、この基本的なイデオムを知らないはずがないのであった。


なぜ、これにここまで拘ったかというと、ただの偏屈ではない。

but no flight of generosity run mad, opposing all that could be probable or reasonable, entered her brain.

の”no flight ”なる「非存在」をどう理解するかである。

PP.68-69(宗宮喜代子『ルイス・キャロルの意味論』)

  1. All girls are funny.
  2. Girls are funny.
  3. The girl is funny.
  4. A girl is funny.
  5. Girl is funny. 

この5文に区別があるだろうか?

と考えたが、ここに、

  1. No girl is funny. 

が加わるからであり、まさにアリス的な文である。
そして、ガザーリーが英語に翻訳されたときに”mad”と言ったことになっているのは、2か所で在り、「非存在」と「比喩」という幾何学的な問題(「造りの弱い蜘蛛の巣のような建造物」P.189,第七問題,『哲学者の自己矛盾』)についてであったからである。

ガザ―リーは「内的知覚能力には三つある」(P.281,〔第十八〕問題,〔第二部〕〔自然学〕,『哲学者の自己矛盾』)という。

  1. 表象力
  2. 評価力
  3. 動物については想像力といわれ、人間については思考力

である。

  1. 形象を認識すること
  2. 観念を理解するもの
  3. 視覚能力ではなく、後述のように、運動能力の中に分類する方がより適切

と説明し、さらにを加える(PP.283)

  1. 記憶力
  2. 保持力
  3. 動機づける運動と実行するの運能能力で在り、前者は欲求力・衝動力であり、これはさらに欲求と怒りに分かれる。後者は神経や筋肉に現れる力である。

そして、「発話ということは、理性のもつ最も特徴的な外的成果」(P.284)であり、

  1. 知的能力
  2. 実践的能力

として現れることを証明する。
このとき、その第三証明で、”mad”が使われ、「何某がバクダードに居る」の換喩(metonymy)を以て「「智者であること」は人間が全体としてもつ一の属性であ」(P.296)ることに対して反論して、そのような言い草が”mad”であり、「彼はその全体(引用者註:バグダード)と関連付けられる」と言う。

☞P.282,〔第18問題〕,〔第二部〕〔自然学〕,『哲学者の自己矛盾』

 第二の内的知覚能力は評価力(al-quwwah al-wahmīyah)である。第一の能力が形象(șyūrah)を認識することであるのに対し、それは観念(ma'ānī)を理解するものである。形相とは、その理解のために質料、つまり物体を必要とするものである。他方、観念とは、その存在のために物体を必要としないものである。しかし、時には、敵意や好意のように、物体の中に存在することもある。
 羊や狼の色や形や状態を知覚するが、そのようなことは物体の中にしか存在しない。それはまた、その狼が自分に敵対的であることをも知覚する。仔羊はその母親の形や色を知覚し、それが自分に好意的であることを知る。そのために、仔羊は狼から逃れ、親の方へと走る。敵意と好意は、色や形のように必然的に物体の中になければならないわけではない。しかし、それらが物体の中に存在することもあるのである。こうして、この能力は先の能力(表象力)とは異なるのである。この能力の位置は、脳の高凹部である。

この一連の下りで、

For this reason the human can imagine a horse that flies, [or] an individual whose head is the head of a man and whose body is the body of a horse, or other com- 25 positions [of this sort], even though the likes of these have never been seen.

al-Ghazali , Abu Hamid Muhammad . The Incoherence of the Philosophers, 2nd Edition (p.311). Kindle 版.

a horse that flies”が出てくる。

これは第三の能力である「思考力(mufakkirah)」でこれは、

その役割は、知覚化された形象を相互に組み合わせ、形象から観念を構成することである。

P.283,同前

その働きで、「空飛ぶ馬」を、実際に見なくとも、想像できる。



www.youtube.com

このようなものを見ると、「地中海世界」が実感できる。
つまり、スペインもフランスも、トルコもペルシャも、ロシアも中国も、一堂に会するのだ。
しかし、重要なピースが抜けている。
ドイツである。
そうすると、「黄禍論」や「アジア的専制」という発話も意義が透けて見える。
宗教的支配は確かに「専制」であるが、「全体主義」はそうではない、ということである。

天皇ファシズム」が或る語義矛盾であるか、という問題である。
「現人神」を信奉する限り「専制主義」であり、「ファシズム」である限り近代的であるところ、「近代的」とは「脱宗教社会化」を伴うからである。

つまり、ガザ―リーの歴史的業績である。
神は世界の外在であって、世界は神の内在ではない。
しかし、近代が「神」を排除したとき、「すべて」は「内在」となった。
カントが「近代」を始めたとき、「不問に付す」程度にとどめたが、ヘーゲルは「元に戻した」のだ。
何からか?
デカルトルネサンス以降の「イスラム化」からである。
したがって、マルクス主義は、純粋に全体主義の問題である。

翻って、上杉慎吉たちの企図した「天皇制」は、地方(と中央)の(抜き差しならない、二重規範の)現実から発した「一揆主義」である。だから、実在と観念が入り乱れている。観念的と言われるが、「天皇と雖も」と言える実在性を認める。要は、「現人神」とは「専制君主」というよりむしろ(所謂「加賀騒動」を可能とする)「殿様的矛盾」なのだ。「殿」と雖も「許さない」のである。
「殿」は参勤交代の物見遊山の見物に晒されたのか知らないが、将軍ならば、そもそも御簾の後ろで居るのか居ないの知らないが仰ぎ見ることさえできない。農民の話ではない。誰もが旗本ならば、誰もが仰ぎ見ることができない存在が「将軍」である。
「殿」とはそもそも「身近」で「気安い」存在でないのだ。
参勤交代の見物は実のところ、平伏する必要がなかった。片膝で十分だったのであるが、旗本になると、そういうわけにもゆかなくなったのだ。

要は、日本の近代化を支えたリテラシーとは、美濃部らの「旗本主義」(中央政府への参加資格)と上杉らの「一揆主義」(地方の、中央への政治的対抗)だったということだ。その後軍隊による民主主義(徴兵と在郷軍人会)と鉄道による民主主義(開発投資)が日本を一体化したのである。それを支えたのが、ドイツの全体主義だっただけである。

「侍」が格好良いとは半ばファンタジーである。
百姓の方は自由があった。なにしろ「百」の「姓」で、要は、「その他大勢」である。
無定義なのだ。