Roxana

 

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☞【note2】

178. The least of all these] Compare Locrine (by Peele and Greene ?) : “ God knows it were the least of all my thought ” (i. i.).

A midsummer night's dream by Shakespeare, William, 1564-1616, author | INTERNET ARCHIVE

BRUTUS.

Nay, Corineius, you mistake my mind
In construing wrong the cause of my complaints.
I feared to yield my self to fatal death!
God knows it was the least of all my thoughts;
A greater care torments my very bones,
And makes me tremble at the thought of it,
And in you, Lordings, doth the substance lie.

Shakespeare. Locrine; Mucedorus (Kindle の位置No.176-179). Kindle 版.
Locrine; Mucedorus by Shakespeare | Project Gutenberg

instance/substance

英語 substance(物質)と同じ語源をもつ。

instance 意味と語源 | 語源英和辞典

時代背景を考えるべき、ということだろうか。すなわち、(或いは実在論を背景に持つ)神判である。

Locrine was entered into the Stationers' Register on 20 July 1594 and published in 1595 in a quarto issued by printer Thomas Creede. Individual scholars have proposed dates for the play from the early 1580s on; many have favored a date c. 1591, based on the play's links with other works of the era. It has been argued, for example, that Locrine borrows from the Complaints of Edmund Spenser, published in 1591,[1] and from The Complaint of Elstred, a poem by Thomas Lodge, written c. 1591, that circulated in manuscript before its first printing in 1593. The question of the play's date is complicated by the question of its authorship; if Charles Tilney was the play's author (see below), it must date prior to Tilney's death in 1586.[2] 

Locrine-Wikipedia


《メモ》

I know the least of my demerits merit this miserable death ; but wilfull striuing against knowne truth exceedeth all the terrors of my soule. 

p.59,The dramatic and poetical works of Robert Greene & George Peele : with memoirs of the authors and notes by Greene, Robert, 1558?-1592; Peele, George, 1556-1596; Dyce, Alexander, 1798-1869 | INTERNET ARCHIVE

(手書きのノート貼りつけ:文の構造を把握—要素と文法。単語の意味を確認。)

 

★キーワードは、knowne truth(:知識↔臆見:probable )でないか?

著者は、シェークスピアと同時代の人で、共作の舞台もあるが、現代においてすら、もっとも評判の悪い戯曲らしい)。古語多し。

やはり同時代に、リチャード・ハクライト(Richard Hakluyt,1553–1616)という人が居たらしくて、”The Principal Navigations, Voyages, Traffiques and Discoveries of the English Nation ”(1589–1600)を遺した。

”exceedeth”はexceedの古語で、三人称単数。”merit”の変化もあるのではないかと探ったら、あった。

And this miracle (which meriteth to be called no lesse) was done to the great commendation of the holy Patriarke in the presence of a thousand persons, and namely of the Soldan of Egypt: who seeing the despight of the Jewes, unto their owne cost

Richard Hakluyt, The Principal Navigations, Voyages, Traffiques, and Discoveries of the English Nation | Perseus digital Library

すなわち、the least merit ~は Some demerits merit ~だろう。

”the least”の構造がよくわからない


要は、L/P問題は、ガザ―リーの言う「内的知覚能力」なのか。
Lは第一能力たる表象力(形象認識;物体自身に属する。)の対象で、Pは第二能力たる評価力(観念理解;物体自身に属するとは限らない。)の対象なのか。
だから、「最小」乃至「最少」ということなのか?

即ち、表象 merit 評価;merit—vt1〔賞罰・感謝などに〕値する(desserve)2・・・を功によって得る—vi〘神学〙功徳を積む(P.1171,旺文社)

このとき、「思考力」の理解を見直して、「知識」との関係を整理したい。

順に考える。

which meriteth to be called no lesse

  1. this miracle merits no lesse
  2. [Who] call this miracle no less

が同義でないか。この call は consider だろう。しかし、callである。
leastは、語源的には[動作主が]お辞儀をすることから、little<less<leastであるらしい。これがヒントになるだろうか。ガザーリーの言う”motive(the motive faculty)”である。

第三の知覚能力は

  1. 動物に於いては想像力、人間に於いては思考力と呼ばれる
  2. その役割は、知覚された形象を相互に組み合わせ、形象から観念を構成することである。
  3. たとえ実際に見たことがないことでも、想像できる
  4. 運動能力の中に分類する方がより適切
  5. 人間の内的能力は、「表象力」「評価力」「思考力」「記憶力」「保持力」の5能力があり、そのほかに、「動機づける運動能力」に「欲求(欲求力)」「怒り(衝動力)」の2つ、「運動の実行力(行為能力)」としての筋肉、神経の力、「理性的」と謂うときの本質の認識に関する「知的能力」と身体を動かし技芸を生み出す「実践的能力」である。
    (ただし、引用者によるまとめ)
  6. 表象力の中に欲求の対象、または避けるべき対象の形象が現れると、運動の実行力が目覚める。
  7. それ(引用者註:怒り)は有害で妨げになると表象されたものを斥け、運動を起こさせ、それにそってその(引用者註:神の)支配を求めようとする能力のことである。
  8. この能力(引用者註:動機づける運動能力)によって、意志的と呼ばれる行為の完全な統合が完成する。
  9. そこで二つの方向(引用者註:知的能力と実践的能力)との関連で、霊魂には二つの能力ががあることになる。
  10. 一つは、天使との関連で、思弁的能力と呼ばれる。
  11. それによって天使から真実の知が得られ、常に上からの働きを受けなければならないからである。
  12. 霊魂の持つ実践的能力は下方に関係する。
  13. それは、身体とその統制、性格の改善の方向である。
  14. これらが訓練によって調教され(省略)
  15. 霊魂の中に悪徳と呼ばれる、肉体的属性に従順な性格が形成されることがなくなる。むしろ実践的能力が支配的となれば、それが原因で、有徳と呼ばれる性格が形成されるのである。
  16. われわれ(引用者註:神学者)が批判するのは、理性だけでそのことを証明でき、それについては聖法に依拠する必要はない、という彼ら(引用者註:哲学者)の主張である。

(PP.283-286,〔第十八〕問題,〔第二部〕〔自然学〕,『哲学者の自己矛盾』)

このことであるとするならば、

  1. (存在の)形象群(表象力)→(或いは非存在の)観念群(評価力)
  2. 動機能力→実行力;神の支配を求める意志的な行為の統合
  3. 真実の知→有徳

ということのようだ。主旨は神の支配である
そして、これは、思うところ、世界の秩序の説明であるので、the least なる one ではなく、the least なる ones からなるdegreeのようだ。

  • 知的能力は思弁的能力(naẓarīyah)とも呼ばれるが、その働きは質料や場所や方向とは無関係な知的対象の本質認識することである。つまり、一般知であり、神学者たちはこれをあるときは「様態」(aḥwā(42)l)と呼び、ある時は「側面」(wujūh)と呼ぶが、哲学者たちは抽象的普遍概念(al-kullīyāt al-mujarradah)と呼ぶ。
    ーP.285
    (42)様態(aḥwāl)。存在と非存在の中間状態のこと。存在するものに付帯する属性であるが、それ自体は存在とも非存在とも規定されない。それは神の本質とその属性のあり方とされ、10-11世紀(引用者註:☟参考)のバスラ系ムータズィラ派神学で用いられた用語だとされる。(Encyclopedia of Islam〔nded.〕,Ⅰ,p.411など、および本書311頁以下も参照)
    ーP.362訳注
    第十の証明(引用者註:〔第十八〕問題)
    彼ら(引用者註:哲学者)は言う。知的能力は、神学者が「様態」と呼ぶ、知的・一般的普遍概念を認識する。
    (略)
    反論
    もっとも知性は時として、方向や位置のないものの存在を認めることがある。例えば、世界の創造主の存在のように。
    (略)
    質料から抽象されるものについては、その様式はわれわれ(引用者註:神学者)が前に述べた通りである(本書281頁以下参照)
    ーP.311-315(〔第十八〕問題終わり)
    ※第十八問題の冒頭。つまり、ここで〔第十八〕問題の解答を終えるのだが、わからなければ「最初から読め」ということらしい。すなわち上で挙げた事柄である。

「無関係」であるので存在と離れると考えるのではなく、本質は存在に依拠することが〔第一部〕の時間の無始性への反論ですでに証明されているので、ここでは、それらに必ずしも左右されない「一般」的な事柄のことを指してなお、「評価」という意義を以て存在から飛躍する(「空飛ぶ馬」のような非現実的な「存在」を思考できる)ことと考えられる。

どうも、the least が複数形になるのは、一般の機序に拠るようだ。

  •  ものの属性(awṣāf)は二つに区分される。第一は、本質的なもの(dhātī)である。例えば、木や動物が持つ物体性、人間が持つ動物性。第二は、偶有的なもの('arḍī)である。例えば、人間や木が持つ白さや長さ。「本質的」「偶有的」との判断が下されるのは、人間や木や〔その他〕知覚されるものの類に対してであって、観察される個体に対してではない。こうして、感覚的性質から抽象された普遍概念が人間の思惟の対象であり、それが知性の中に存在する、ということが示された。
     知的対象であるこの普遍概念には、方向も位置も大きさもない。
    ーP.312-313

気を付けなければならないのは、これはあくまで哲学者の見解でありガザーリーはこれから、これに反論を加えるのである。
しかし、その機序が述べられている。「個体」は「観察される」のだ。その結果、例えば人間なら

  • こうして、それは、感覚が特定の人間の個体を見たとき、〔そこに〕「人間一般」(al-insān al-muṭaq)を認識する。しかし、それは目で見る個人とは別のものである。目にするものは、特定の場所にいて、特定の色、特定の大きさ、特定の姿勢をもったものである。
    ーP.312

ということが、先だって述べられている。「個体」から「一般」を導く道程に於いて ”the least” が現れるのではないかと思う。
この「一般」は「普遍論争」の対象となった概念のはずで、要は、救済論である。
「人間一般」を神は救済するが、貴方が地獄に落ちるのはなぜか。
ランキング形式(秩序)があるようだ。

各々の仕事の価値は、はっきりわかるようになる。

煉獄 - Wikipedia

「ふざけた連中だ」とオッカム村のウィリアム、、、、、、、、、、、(1285-1347)は思ったに違いない。いや、ここでいう「哲学者」に対してである。
なにしろイギリスの田舎者なので純朴である。今となっては次世代のニューウェーブの評価も定着しているが、30過ぎてもクスぶっていたらしい。

☞参考

そうすると、考えるべきなのは、それがどのような論証形式を以て説得的であったかである。それもひとつの「中名辞」(P.37,第三章臆見,『確率の発見』)だからである。今まで見て来たのは、その経緯である。