Roxana

 

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ロビンソン・クルーソー』(Robinson Crusoe、1719年)を書いて有名なダニエル・デフォー(1660年 - 1731年)の最晩年の作品に『ロクサーナ』(Roxana、1724年)がある。

Roxana (1724), Defoe's last and darkest novel, is the autobiography of a woman who has traded her virtue, at first for survival, and then for fame and fortune. Its narrator tells the story of her own 'wicked' life as the mistress of rich and powerful men. Endowed with many seductive skills, she is herself seduced: by money, by dreams of rank, and by the illusion that she can escape her own past. Unlike Defoe's other penitent anti- heroes, however, she fails to triumph over these weaknesses.
Roxana s drama lies not only in the heroine's 'vast variety of fortunes', but in her attempts to understand the sometimes bitter lessons of her life. Defoe's achievement was to invent, in 'Roxana', a gripping story-teller as well as a gripping story.

P.403,Roxana by Defoe, Daniel, 1660 or 1-1731; Mullan, John, (Ed.) | INTERNET ARCHIVE

難しいな。
というのは、今考えなければならない最も重要な語”fortunes

Google翻訳の単語検索では、こう説明される。

fortune の定義

  1. chance or luck as an external, arbitrary force affecting human affairs.
    ”some malicious act of fortune keeps them separate”
  2. a large amount of money or assets.
    ”he eventually inherited a substantial fortune”

arbitrary の定義

  1.  based on random choice or personal whim, rather than any reason or system. his mealtimes were entirely arbitrary

まさに「蓋然性」(probabilittas)に関することである。

この「蓋然性」とは、「知識」ではなく「臆見」に属し、「正しさ」に依って得られる「証明」すなわち「論証」ではなく「高潔さ」に依って得られる「是認」すなわち「弁証」であり、そこで求められるのは「証拠」ではなく「証言」であり、個々から得られる「命題」は普遍的なものではなく一時的なものである。

ほとんど意味不明なのであるが、手掛かりは在る。

  1. したがって、弁証法的三段論法は臆見を作り出すことを目的としているので、弁証家は最善の臆見の基盤、すなわち多くの人、また特に賢者が支持している事柄のもとで進めることだけに努めている。
    そこで、人が弁証法的な推論をおこなうときに、実際には中名辞を通じて証明できるかもしれないが、その蓋然性のために自明だと思われるような命題に直面しているとしよう。弁証家はこの命題だけが必要である(Aquinas Ⅰ.Post.An.1.38.n.258)
    —PP.36-37,第三章臆見,『確率の出現』
    イアン・ハッキング著,広田すみれ・森元元良太訳,慶應義塾大学出版会
  2.  

1は何を言っているかと言うと、「アクィナスは適切な理由の妥当な概念をもっていなかったため、実際に是認されるものだけしか扱えなかった」(P37,第三章臆見,『確率の出現』)ことであり、すなわち、(現代的な)科学的推論ではない、ということである。要は、権威的推論であり、権威が次の権威を生み出すという意味で演繹的であり、「帰納」が発揮されるのは、その「権威」の引用に際してのみである。
つまり、「是認」されたのだから、次の弁証に使えるという便宜である。「蓋然性のために自明」とはこの「「是認」のために「演繹的」」のことである。

なぜわかりにくいかと言うと、

  1. 語彙の混乱
  2. 文法の混乱

が「在る」がゆえに翻訳の混乱が「在る」と推論されるからである。
前段の「また」は not only(A),but(B) でないのか?『ロクサーナ』の引用と符合する。
すなわち、A or B (選言)であるとき、しかし(すなわち、Aを「唯一」と制限してなお、それを排中律から「二重的に」否定して)Bを(強く)支持する表現法であると思う。これは「排他的選言」と呼ばれる論理形式に近いように思う。
要は、but≒which notであると思う。

これは唯名論と関係が深いとのことである。

ある英訳本などは A white horse ”is not” a horse などと訳している。

P.76,「白馬論」―排他的選言,唯名論者たち―(一)公孫竜,第二章古代中国人の論理学意識,『中国人の論理学』
加地信行著,中公新書

なぜか、 White horse ”is not only” horse ,”but” white. だからである。

この点、加地も誤解しているようなニュアンスで採り上げているが(つまり、加地は、形式論理と日常論理を区別したかったのであるところ)、

さて、公孫竜は、さきほどの「名実論」のところでも触れたように、現象の背後に存在するものなどは認めない。だから、白さというような普遍の存在を認めない。ただ、白い色をしているその白いこと、という現象だけしか認めない。

P.78,同前

どういうことか

白馬ということばを使うものの、その意味するところは〈白い〉という色を表すということなのである。
(略)
「白馬ハ馬ニアラズ」のすぐあとで、「白というのは、それによってある物の色に名づける手段である」といっているからである。

P.79,同前

ここで混乱する。
それは連言でないのか?すなわち、’white’ and ’horse’(’white’⋀’horse’)ではないのか、ということである。

PP.68-69

  1. All girls are funny.
  2. Girls are funny.
  3. The girl is funny.
  4. A girl is funny.
  5. Girl is funny. 

この5文に区別があるだろうか?宗宮は解説する。

  1. ((All)girls are funny.)のような総称文は,個体について述べるのではなく概念間の関係を述べる(P.68)
    ∀x[Girl(x)→Funny(x)](P.67)
  2. 集合図で書ききれない※(引用者註)のが確定記述を主語とする文である。
    The girl is funny.(その女の子はおもしろい)は次のように翻訳される。
    ∃x[∀y[Girl(y)↔(y=x)]⋀ Funny(x)](p.68)
  3. 上の文で the は,話者が「私がどの個体を指して girl と言っているか,聴者であるあなたにもわかるはずだ」と判断したことを合図している。一方,先の例文中の a は,話者が「私には分かるが聴者のあなたには girl と言ってもどの個体のことか分からないでしょう」と判断したことを合図する。このような語用論的な意味を論理表記は現わさない。
    ∃x[Girl(x) ⋀ Funny(x)](p.65)

このとき、4或いは5は、2に埋め込まれて(埋没して)、没文脈化している。

※下の図は「集合図で書ききれない」確定記述の作図である。

皮肉ではなく、宗宮の解釈によると、このような作図は「メタファー」になる。
ここで鍵となっているのは、

  1. (総称文の解釈に利用した)ヴェン図でなく、「集合図」と言っていること
  2. 部分集合がどのようなときにラッセル的な問題を生ずるか(タイプ理論と集合論の違い)

であると思うのだが、これとは別に技術的な見解を挙げられる。すなわち、フォン・ノイマンである。2が下のZFC公理の元となったZF公理にフォン・ノイマンが付け加えた「基礎の公理」に関係することであり、「基礎の公理」が「集合のメンバー関係の下では,無限降下列は存在しない.」(P.186)を指示するのは、「(ZF)公理では,それ自身を含む集合を排除していない」(〃)からである。メタファーを用いると「容器はそれ自身の内側に存在することができない」(〃)という言い草(この文に意味があるかわからない。これになると解釈の為の解釈であると思う。)になる。

「数は集合であり、集合はグラフである」(P.189,第7章集合と超集合,第Ⅱ部代数,論理,集合)は数のメタファーが《容器》から《矢印(有向グラフ)》に変わったことを示すが、すでに多くの内容を含んでいる。
前提として183ページから始まる「7.2.1公理的集合論」の内容を踏まえると、ZFC公理系に属する「外延性公理」「分出公理」「対の公理」「和集合の公理」「べき集合の公理」「《無限》の公理」「選択公理」に関して、「集合が容器であることを求めているものは1つもない」或いは「公理は集合がどのように概念化されるべきかを明示的には示していない」代わりに「「集合」と呼ばれる実体を創造することである」(強調は原文ママ)としてこのように続ける。

ここでのポイントは,すべての数学的概念が集合論的構造の上に写像される形式的数学の内部では,これらの構造の中で使われている「集合」は,厳密には《容器》のスキーマとしては概念化されていないということである.従って,集合は内部,境界,外部を持つ《容器》のスキーマの構造を持たない.実際,形式的数学の中では概念はまったく存在せず,集合は何か具体的なものとしては概念化されていない.集合は未定義の実体であり,その唯一の制約は公理に「適合」しなければならないということだけである.形式論理学者およびモデル理論の研究者にとって,集合は公理に当てはまる実体であり,数学の他の分野のモデル化に使われる.

P.185,7.2公理的集合論と超集合

要は、どのように「実体化」されるかというと、「化」に着目するならばグラフの《矢印》のメタファーだという話と思う。したがって、  (0;ゼロ)という表示(シンボル)を基礎した表現操作が行われる(とっくに1を基礎としなくなっている) 。そのような表現が「当てはまる」という話である。

  1. {  {  }}
  2. {  ,{  },{  {  }}}
  3. 《集合はグラフである》というメタファーの下で、それ自身の「メンバー」である集合を表すグラフである
  4. ある無限グラフにおける頂点の無限に長い鎖であり,それは3に同値である

(p.190,Barwise & Moss,1991から改変したもの—引用者註:a,b,c,dを1,2,3,4へ変更)

要は、比喩という飛躍した表現を用いて実体を説明(乃至「創造」)できればよいのであるから、アリス文がすでにヴェン図の内容を含意している、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ならば、《容器》と《矢印》をともに用いた最初の図で不自然ではないと思う。
ただし、「有向」なので、AandBとBandAが同じ内容ならばそれぞれを(当然におなじものとして)図示できるかを考えたときに、いくばくかのニュアンスも生じないという意味で、静態的である。《矢印》はあくまでメタファーであって、その意味で、(「創造」を企図して、)動態的ではなく「動態的」(というデザイン;図案)だからである。数(或いは0;ゼロ)がただの表示(シンボル)に過ぎないことと平仄が合う話である。

 

反対に、(↔の意味において;関数を挟んで、Y{}とその全射後のG{}のいずれにも”a”を冠する対象を認められるとき、いずれかで認めらない)反例を許して文脈化されたときに、(形式論理に現れない)”語用のthe”が現れるのではないかと思うが、いかがか。これが文脈化することだと思う。すなわち、文脈化とは一種の反例化を担っていると思う。

(b) that the pragmatic interpretation can be derived in a systematic way from the interaction between the sentence meaning and the context.

 Semantics is thus concerned with the meaning that is directly expressed, or encoded, in sentences, while pragmatics deals with the principles that account for the way utterances are actually interpreted in context. A central principle in pragmatics, which drives a great deal of the utterance interpretation process, is that the addressee of an utterance will expect it to be relevant, and will normally interpret it on that basis.

(略)

A proposition of the type “if P then Q” does not require “P” to be true in order for “Q” to be true.16 We therefore need an explanation for this fact: anyone who is told If you agree to look after my horses after I die then I’ll leave you my whole estate will always assume that the bequest will not be forthcoming without the agreement to look after the horses. Why? Because otherwise it would not have been relevant to mention the horses. If that part of the sentence had some relevance, it must be as a necessary condition for getting the bequest, and we normally try to find an interpretation for an utterance that makes everything in it relevant. The semantics of the sentence does not tell us that the horse care will be a precondition for the bequest, but the pragmatics of interpreting the utterance certainly does.

16 If this is not obvious, consider the sentence If a house collapses directly on me I will die. This does not entail that provided no house falls on me I will be immortal. Eventually I will die anyway. Or consider If you need some more milk there’s plenty in the fridge. This does not state that there is plenty of milk in the fridge only if you need some. If there is milk in there, it will be there whether you need it or not. A sentence meaning “if P then Q” will often strongly suggest “if not P then not Q”, but that is not part of the semantic meaning.

(www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。)

(b)語用論的解釈は文の意味と文脈の相互作用から体系的に導き出せること。

 このように、意味論は文の中で直接表現される、あるいは符号化される意味について扱い、語用論は発話が文脈の中で実際に解釈される方法を説明する原則を扱う。 語用論の中心的な原理は、発話の解釈プロセスの大部分を左右するもので、発話受け手はその発話が関連性のあるものだと期待し、通常はそれに基づいて解釈するというものです。

(略)

もしPならQ」というタイプの命題は、「Q」が真であるために「P」が真である必要はない16。 もし私が死んだ後、馬の世話をすることに同意してくれたら、私の全財産をあなたに遺す」と言われた人は、馬の世話をすることに同意しなければ、遺贈は受けられないと考えるだろう。 なぜか?そうでなければ、馬について言及する意味がないからです。もし文のその部分に何らかの関連性があるとすれば、それは遺贈を受けるための必要条件としてでなければならず、我々は通常、その中のすべてを関連付けるような発話に対する解釈を見つけようとするのである。 この文の意味論は、馬の世話が遺贈の前提条件となることを教えてはくれないが、この発話を解釈する語用論は確かにそうである。 

16 もしこれが明白でないなら、If a house collapses directly on me という文を考えてみてください。 このことは、家が私の上に倒れなければ私は不死身であることを意味しない。いずれにせよ、私は死ぬのだ。 また、If you need some more milk there's plenty in the fridge.という文章を考えてみよう。 これは、牛乳が必要なときだけ冷蔵庫にたくさんあることを述べているのではない。 牛乳があれば、あなたが必要であろうとなかろうと、そこにあるのです。 「もしPならQ」という意味の文は、しばしば「もしPでないならQではない」ということを強く示唆するが、それは意味上(引用者註:意味論)の意味には含まれない。

Huddleston, Rodney; Pullum, Geoffrey K. (2002-04-14T22:58:59.000). The Cambridge Grammar of the English Language (p.38). Cambridge University Press. Kindle 版.

また、4と5が本当に同じ内容を意味しているかと言うと、こういう説明もあった。
☞観念的/実在的

妙なのは、英語では、単に、 A white horse ”is not” a horse というのみである。
もちろん、鍵は、不定冠詞である
中国語が概念語であるのは、冠詞のつかない、、、、、、、
「名」を(そのまま)扱っているからである。それが古典的「実在」ということであるようだ(つまり集合論ではなく、”a”と対象化されていない)。

足立先生のことはずっと尊敬していて、今はギリシャ語に関心を持っていらっしゃるようなのだが、その指摘は相変わらず示唆に富む。

先ほどの表現が、連言でないのは、考えるにどうも、not[only A]and not[only B] すなわち、not [A⋀¬B]and not [¬A⋀B](¬:否定;仮定から排除)まで言わなければならないが、そこまでは言っていないように思えるからだ。

すなわち、¬(¬Q⋀P)であって、要はむしろ、P→Qである(cf.P.114,4.1論理演算子の意味論,第4章真理値表と反証図,マグロウヒル大学演習現代論理学(Ⅰ),John Nolt/Dennis Rohatyn共著,加地大介訳)。このときに、Q∨¬P(選言)である。
ところで加地さんは親子かね?

もちろんこのような形式論理のルールに則っていない日常的な表現であるから、”White horse”という複合概念では、”White”が特に強調されているのだろう(”White horse”ならば”white”である、との、、主張である)。
ここで「わかる」。
単なる形式的な関係ではなく、そこに「焦点化」の意図が「在る」ことが。
いわば、古典的な意味乃至弁証的な意味での「条件付きの「確からしさ」」(条件付き確率)である(not only ’horse’が’horse’に焦点化を果たしている。1匹の馬という具象について述べるのではなく、「馬」というカテゴライズに即して言うと、という意味である;A(馬)⋀B(白)は、A(馬)∨B(白)のうち、A(馬)∨¬B(白)と言うときの’A(馬)’に即して言うと、¬B(白)でない、ことがない―強調した主張)。

当たり前と言えば、当たり前だが、これが長らく詭弁とされてきたのは、具象とリアリティーが名を介して理解されるとき、名が独立した操作に依るからである。
これが冠詞の効用である。「実在」と具象を分ける試みの嚆矢であるように思う。
反対から言うとき、長らく、「実在」と具象は十分わけられていなかったのではないかと推論が働く。

さて、1に戻ると、

  最善の臆見の基盤、すなわち多くの人、また特に賢者が支持している

での「また」とは”or”であると推測されることから、、not only, butを使うと、


  [最善の臆見の基盤]is not only[すなわち多くの人],but[賢者が支持している]


となる。反対に、

Roxana s drama lies not only in the heroine's 'vast variety of fortunes', but in her attempts to understand the sometimes bitter lessons of her life.

ならば、


  [ドラマ]は[多様性に]ではなく[企図に]ある。


このとき、(広い)[多様性](”vast variety”)は”fortunes”に、[企図](”sometimes bitter lessons”)は”attempts”に制限されているのであった。
小説が、具体的事実に関する意図に基づく経緯であることを説明している。
もちろん、多様でないことはない。白馬が馬でないことがないように。

リアリティーとプロバビリティーの関係である。

This was the first View I had of living comfortably indeed, and it was a very probable Way, I must confess; seeing we had very good Conveniences, six Rooms on a Floor, and three Stories high : While he was laying down the Scheme of my Management, came a Cart to the Door, with a Load of Goods, and an Upholsterer's Man to put them up ; they were chiefly the Furniture of two Rooms, which he had carried away for his two Years Rent, with two fine Cabinets, and some Peir- Glasses, out of the Parlour, and several other valuable things.

P.32,Roxana by Defoe, Daniel, 1660 or 1-1731; Mullan, John, (Ed.) | INTERNET ARCHIVE

この”probable”は「臆見」であって、だから「高潔さ」によって得られる「是認」のことである。彼女自らの判断に基づいているのではなく、当然(自明)にそういうもの、、、、、、だと権威づけられていることである。
すなわちそれが、”; ”を以て同形質を並記する内容で、例示されていることである。
「確かにそうでしょ」だって「1階に6つの部屋があり、」ということで、それは「私がそう勝手に(”comfortably”と)言っているのじゃなくって」ということである。


『確率の出現』に『ロクサーナ』が採り上げられていたからそれを見ている。