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情報数学 I 第 8 回「順序集合-半順序集合、束、ブール束」
そうだったのか。まだ理解が不十分だけれど、勉強になった。
- x∨a=1(最大限)
- x⋀a=0(最小限)
- x∨0=x
- x⋀0=0
- x∨1=1
- x⋀1=x
そうすると、x=0のとき、6より、0だとすると、ドジソン図は、ブール代数に従っていたのだろうか。そういうことなんだろうか?
順序が付けられるということは,最大や最小を考えることができるということです。これについて,定義していきましょう。
ルイス・キャロルことチャールズ・ドジソンは本当にブール束で考えたのだろうか。
『数の国のルイスキャロル』にも『記号論理学』にもブールの名は出てこない。ヴェンの名なら、13か所出てくる。
献辞に「アリストテレスの思い出に捧ぐ」と書いたらしいが、本文にアリストテレスは出てこないようだ。カントも出てこない。シルヴェスターもパースもクリスティーン・ラッド=フランクリンも出てこない。ジョン・クック・ウィルソンも出てこない。ヴェンだけ13か所出てくる。
要は、ドジソンの体系は、ブールの体系〈U ; ⋀,∨,¬,1,0〉に関係して、「カント―ルのパラドックス」を含んで無限を内部化している、すなわち、ドジゾンのマトリックスがカントールの「対角線論法」を含んでいることが、"Predicate" と "all" によって可能となっていることを言いたいのだ。
なんでラッセルは「集合」(或いは、カント―ルの素朴集合論)を避けて、「型」へ向かったのだろう。公理的集合論と型理論のもつ公理の違いって何だろう。
と考えると、キリがないのか、霧が晴れないのか、時間がかかって仕方がないので、とりあえず、カント―ルの「対角線論法」と同じ内容を含んでいることを手っ取り早く説明するには、どうしたらよいだろう。
なぜ、こんなことを考え出したかというと、シェークスピアが変数を使っているからだ。シェークスピアが、古典(『イーリアス』)を参照して、当時にあってリアリティーが感じられた、当時の世界観(ルネサンス、実は、ギリシャ哲学を解釈したイスラム神学を経由したキリスト教の価値観の拡大;アリストテレスの単純な受容の克服)と世界像(地中海世界から大航海へ)の中でのビビットな社会像を、ロジックを駆使しつつ、アナロジカルに提示したために(クローズド・サークルであるのは、ユナニ医学の古典で云う臓器のアナロジーであると思う。)、夏目漱石には読み取れなかったことを言いたかったからだ。
(持っているけれど、読んでいない)
(持っていない)