(P.107,第二章第三場,夏目漱石先生評釈Othello - 国立国会図書館デジタルコレクション

やっとわかった。これはパラドックスだ。
シェークスピアが『オセロ』でやりたかったのは、おそらくこれであって、ギリシャ哲学に学んだ「中庸」からパラドックスを構成したかったんだ。

すなわち、漱石の訳は、根本的に間違っている。
これはある種の論理式で、"elements"は自由変数Xに過ぎず、それ自体の意味を持たない。つまり、代入すべき別の複数形名詞がパラグラフ内に在る。
そして、これは単独で成立しているのではなく、対で成立している。

IAGO
If I can fasten but one cup upon him,
With that which he hath drunk to-night already,
He'll be as full of quarrel and offence
As my young mistress' dog. Now, my sick fool Roderigo,
Whom love hath turn'd almost the wrong side out,
To Desdemona hath to-night caroused
Potations pottle-deep; and he's to watch:
Three lads of Cyprus, noble swelling spirits,
That hold their honours in a wary distance,
The very elements of this warlike isle,
Have I to-night fluster'd with flowing cups,
And they watch too. Now, 'mongst this flock of drunkards,
Am I to put our Cassio in some action
That may offend the isle.--But here they come:
If consequence do but approve my dream,
My boat sails freely, both with wind and stream.


Othello Act 2 Scene 3 対訳『オセロ』第二幕 第三場

【参考】
of 意味と語源 – 語源英和辞典
#990. 副詞としての ''very'' の起源と発達 (1)
#991. 副詞としての ''very'' の起源と発達 (2)


まず、

  The very elements of this warlike isle,

とは、

  The  elements of very warlike isle,



  The  honours of very warlike isle,; in a wary


することで、

  That may offend the isle.

する操作だったんだ。
これについて、漱石は、

(P.87,,第二章第三場,夏目漱石先生評釈Othello - 国立国会図書館デジタルコレクション)

と括弧付でしか言っていない。

さて、問題は次だ。

IAGO
And what's he then that says I play the villain?
When this advice is free I give and honest,
Probal to thinking and indeed the course
To win the Moor again? For 'tis most easy
The inclining Desdemona to subdue
In any honest suit: she's framed as fruitful
As the free elements. And then for her
To win the Moor--were't to renounce his baptism,
All seals and symbols of redeemed sin,
His soul is so enfetter'd to her love,
That she may make, unmake, do what she list,
Even as her appetite shall play the god
With his weak function. How am I then a villain
To counsel Cassio to this parallel course,
Directly to his good? Divinity of hell!
When devils will the blackest sins put on,
They do suggest at first with heavenly shows,
As I do now: for whiles this honest fool
Plies Desdemona to repair his fortunes
And she for him pleads strongly to the Moor,
I'll pour this pestilence into his ear,
That she repeals him for her body's lust;
And by how much she strives to do him good,
She shall undo her credit with the Moor.365
So will I turn her virtue into pitch,
And out of her own goodness make the net
That shall enmesh them all.
 Re-enter RODERIGO
How now, Roderigo!

Othello Act 2 Scene 3 対訳『オセロ』第二幕 第三場

 

「混合」「矛盾」「分離」の三段論法で・・・複雑さが増しているうえに、ダブルでかかっているのはわかるが、もうひとつの「矛盾」が見つからない。


まさしく同時代のデカルト方法序説』と双璧を為すことが見い出された。

P.68,♣確定記述の論理表記

「girlという特質を持つ個体のうち、それは必ずこの個体である同定できる個体が少なくとも1つ存在し、その個体はfunnyという特質をももつ」

は、

 ∃x[∀y[Girl( y )↔( y = x )]⋀Funny( x )

の論理式の「直訳」(P.68)であるが(赤字、強調、下線は引用者。)、下線部が、ヴェン図で考察される「総称文」と比すべき箇所である。すなわち、

 All girls are funny ./ Girls are funny.

「個体について述べるのではなく概念間の関係を述べる。」このため「ヴェン図をそのまま用いることができる。」
要は、古典論理乃至ヴェン図では、述語の are が意味をなさず(P.69「命題論理学が切り捨てた文の内容の意味構造」、同「古典論理学では「実体・属性」の意味論は空回りし、文の意味構造が論理表記に反映していなかった」;「空回り」「反映していなかった」ということであり、”All girls are funny .””Girls are funny”と書けるが、表現が意味を持たなかったということである。)"Girl"と"funny"がそのまま取り扱い上の同等なこととして比較される(関係づけられる)のだ。"all"や"s"や"are"が論理的に意味を為さない、ということである。それを(量化を経て)表記できるように考えたのが、述語論理学であるらしい(同「しかし述語論理学では、「個体・特質」,「成員・集合」の意味論は関数と項の論理表記に明示されている」。ただし、ここでの「集合」がラッセル的な意味か、カント―ル的な意味か、ツェルメロ=フレンケル的な意味かは、特に説明されていない。いや、知らない)。

しかし、こうも言う。
「ところでこの表記は上の意味を十分に表してはいない。英語の定冠詞は個体の唯一性を表すだけでなく、語用論的な意味をも担うからである。」(P.69)
話者と聴者で交わされる〈判断〉である。"the" が(どの固体か)「分かるはずだ」(同)との〈判断〉の「合図」すなわち、signalであり、" a " が(どの個体か)「分からないでしょう」(同)との〈判断〉の「合図」すなわち、 signalである。

symbol。 「バラの花」と外部表出(書かれるなり、言われるなり。)されるとき、「バラの花」は言語的シンボルである。
シンボル - Wikipedia

すなわち、"the"と話者から言われたとき、聴者が、どの"the"かな、話者から"a"と言われたとき、聴者が、どの"a"かな、と認識するまでもなく(イメージを喚起するまでもなく)、聴者に於いて、分かる/分からないとの(二値的;反応的な)〈判断〉を惹起するということである

この〈判断〉観は、フレーゲに繋がって、或いは(繋がらず)対比されて、面白い。
フレーゲは文中から〈判断〉を除去できずに挫折したからだ。

「このような語用論的な論理表記は,意味論の仕事はここまで,と言っているようだ」(P.69)と説明されている。そうして、分析哲学の影響を受けた「第4章 現代の意味論」、社会学の影響を受けた「第6章 現代の語用論」へと進む。その間に「第5章 ルイス・キャロルの意味論」が説明されて在る。

足立先生の👇では、「読み物」として書かれているにも関わらず、(私のような)素人には理解が難しいので、『ルイス・キャロルの意味論』など宗宮喜代子先生の著作と併せて、、、読むことがお薦めである。命題論理(ヴェン図)から述語論理への流れのイメージ、フレーゲの悩みのイメージが作りやすくなると思う
ちなみに、ジョン・ヴェンとルイス・キャロルこと、チャールズ・ドジソンはライバルで、ドジソンはヴェン図を論難して、自らの論理図のキャンペーンを張っていた。これは、ニュートンライプニッツによる先取権の言い争いの、実は、底にあったエイクレイドス(ユークリッド)と  の「無限」の違いに端を発した記号論の争い、或いは、エジソンニコラ・テスラの「電流戦争」を思い出させる。イギリス人とドイツ人、オーストリア人(オーストリア帝国時代。現在は、クロアチア)の違いは物議を醸すのだ。ラッセルとヴィトゲンシュタインの違いもそこにある。

 

 

 

 

 


シェークスピアもアンセルムス~ゲーデルの系譜に連なるのであった。

前段として、天才フレーゲの論理史上最大の名言

  存在は2階の述語である

について、

存在は個体についての述語ではなく、(1階の述語が表現する) 性質についての述語だと理解するのがよい

存在は2階の述語である - 論理学FAQのブログ

 

『オセロ』を考えるときに注意が要るのは、アリストテレス幾何学的世界観の中で考える「中庸」(概念)は数(概念)に類比される、ということである。一次独立なXとYに関して数を構成できるとき、中庸もそのように構成できるというのが、アリストテレスの主張である。つまり、例えば、Xを勇気、Yを親切とすると、勇気も多い、少ないを比べられ、親切も同じように比べられるとの信念が、中庸な人格を構成するという主張であって、実際にどの人の勇気が〈5〉で、どの人の勇気が〈1〉かはわからないが、そんなことに関係がなく(「どの人」、「どのような」は、考察されることがあっても、ここでは、、、、関係なく)、勇気には、比較が可能な対称として〈5〉の場合と〈1〉の場合が当然に考えられる「考え方」ということである。そのような考え方を採るときに限り、人格が完成できるとの信念である。それを「中庸」と呼んだのだ。

cf. 態度とは - コトバンク

このとき、、、、シェークスピアは、その信念を採用(信用)すればするほど、採用(信用)できなくなることを主張して、アリストテレスを論駁したとここでは主張するものである。

そうすることによって、シェークスピアが、デカルトと同じように、イタリアで起きたルネサンスの影響を受けた、もとよりイスラム神学によって整理されたギリシャ哲学と、キリスト教に関する、哲学と神学の統合の時代の主役の一人であると主張するものである

イスラム神学は、アリストテレスの哲学を知って以来、言語的な浸食を受けたので、当初、(イブン・スィーナーが)哲学を整理することで神学との分別を図って神学を再興したが、それが「可能な条件」として(すなわち、哲学が—「哲学」として—操作対象になると)受け取られて以降、(哲学と神学の)「再統合がすすんだ」との観測がある。よく知らない。ここで重要なのは、近世のヨーロッパの哲学者が、その「韻」を踏んでいる、ということである。

購入したが、開いたところ、神学に言及できていても、上の事情に一切触れていないので、その程度の話であると思う。
いや、ここで重要なのは、近代の日本の知識人が、「その程度、、、、」の影響を受けたかどうかである。すなわち、漱石のことを言っている。