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PP.221~222を整理してみた。
(「三段論法の解き方」)
- 宣言文(「前提」)
- Babies are illogocal
- Nobody is despised who can manege a crocodile
- Illogical persons are despised
- 凡例
- 宇宙 { ”人”|a;b;c;d }={ ワニを管理できる;赤ん坊;軽蔑される;論理的 }
- not A:A';〈A,A'〉
- 用例(「前提を別々に記入する」)
- All b are d’
- No a are c
- All d’ are c
- 用例(「前提を別々に記入する」)
- 方程式(「前提を組み合わせる」)
- b=d’
- a’=c
- d’=c
- b=c ∵ 1,3
- b=a’ ∵ 2,4
- 用例
All b are a’
- 用例
- 結論
Babies cannot manage crocodiles
整理したら、いろいろ見えて来た。
これは、
- 赤ん坊は非論理的である
- ワニを管理できる者は誰も軽蔑されない
- 非論理的な人は軽蔑される
から
赤ん坊はワニを管理できない
を導く三段論法である。
- 「(赤字強調)」は、ルイス・キャロルことチャールズ・ドジソン自身の言葉である。
- 「凡例」下の「用例」すなわち「前提を別々に記入する」とは、イギリスの john venn が考案したヴェン図に対抗した、キャロル図とでも呼ぶべき、論理ゲーム上のゲーム盤への駒(符号※)の置き方(記入の仕方)のことである。
※〈A,A'〉を〈〇,●〉とする。これは、いわば、「正の数」に対する「負の数」の措定である。 - ヴェン図に対抗した、キャロル図の独創性は、本人の主張するところ、図に大外枠を設けて(P.230「一つの閉じた領域で」;以下文中は同じ引用)「その論述の宇宙」を表現して「有限」化することである(ヴェン図にはない)。
「ヴェン氏の自由放任なやり方では、宇宙という物が無限大まで広がりうる」
「その論述の宇宙」を設けることで、初めて、議論が有効になるとの主張である。 - この「有限」とは「枚挙性」のことにほかならず、まただから、内部に無限に分割することが可能である。ヴェン図では5文字までしか図示しなかったが、キャロル図では8文字の場合を図示し、10文字の図示まで説明している。これには、以下の内容が含まれている。
図示に正方形を使って正則化することで、二軸化しつつ一様に分布させ、「その論述の宇宙」(の限界)である外枠を設けることで、手続きを有限化して、分割された中にある「二相図」(2つの実在関係)を常に枚挙できる利便性をもたらした。
オックスフォード大学のクライスト・チャーチに進んだ。チャールズは数学に対して天賦の才能を示し、2度にわたり首席の成績を収め、大いに将来を嘱望された。
1853年からケンブリッジ大学のゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに学び、1857年に数学の学位を取得した。1862年、フェロー研究員としてケンブリッジへ戻り、倫理科学 (Moral science) の講師を務めるともに、論理学及び確率論を研究・教授した。
ルイス・キャロル 1832年01月27日 - 1898年01月14日
ジョン・ヴェン 1834年08月04日 - 1923年04月04日
カール・テオドル・ヴィルヘルム・ワイエルシュトラス
1815年10月31日 – 1897年02月19日 - 「方程式」の等号(=)は、数学上の数を扱っているのではなく(☟)、古典論理における実在の「等しさ」を表しており、(中に)対象を持たないが、「違い」と「対称」を持つ。(量子力学とまったく関係ないが、イメージとしては)color(color "a"and~)とcharge(or no charge)だとわかりやすいかもしれない。数多く実在する「色」の中にペアを見つけることができることが所与となっている。
このとき、A'はAと対になる一つの「色(が在ること)」であって(また、各「色」は独立であって、たまたま上図で離接する「色」に直接の意味合いはない。)、これがルイス・キャロルのナンセンスのアイデアとなっている。
『非誕生日の贈り物って何?
"I see nobody on the road"は
「『無人』が見えた」?』
(『ルイス・キャロルの意味論』の帯文)
- 宣言文中、"s"、"are"、"no" で表現される「量(化)」は意味を為さない。
意味を持つのは、「否定」の語彙であっても、"i" で表現される「対称(化)」である。
☞参考
数学記号の由来について(2)-数字の関係を表す記号(=、≒、<、>等)- |ニッセイ基礎研究所
濃度 (数学) - Wikipedia
チャージ (物理学) - Wikipedia
これはデカルトの「我思うゆえに我あり」と基本構造を同じくする。
これが藁谷の言う、「存在」(或いは「命題」)とは「主語」なのか「述語」なのか、という問題である。「主語」であるならば、「我」と「思う」が実在として等しく扱われる、ということである(「我」という実在"a"、「思う」という実在"b")。したがって、「ゆえに」ではなく、「即」がふさわしい。
上の説明3の4と5は。「ゆえに、「もたらされる」」のではなく、「当然に「謂える」」ということを表現して、1乃至3と、機能上等しく並列されることを意味している。
この理解に立たないと、パスカルの「人間は考える葦である」との区別がつかない。
そうすると、「可能態」とは何か(例えば、「雨が降ることができる」とは、 的な、無限に時間を延ばせばどこかで一度は必ず降ることなのか、アリストテレス的な、たまたま降らないことが無際限に続いてもよいことなのか)、の議論へつながる。