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そんなことを知る由もない漱石にしては、どうだったか。
要は、後進国だったイギリスが先進国のイタリア風に書いたシェークスピアを、先進国となったイギリスへ留学してなんだか失敗した、後進国の日本の若者が「intellectuallyにできない」と言うのである。
高尚な「語学留学」にしかならなかったお前が、何を言うとんねん、という話である。
クレイグが編集してオックスフォード大学出版局から上梓されたシェイクスピア全集は戯曲『シンベリン』から始まり、1891年に出版された。
一木喜徳郎もよくわからないから留学したが、よくわからないまま帰って来たのであった。その弟子が美濃部達吉である。
一流の研究者に師事したから、何事か得られたか。
上杉慎吉はイェリネックに師事したから、イェリネックに就いて拓かれた。美濃部はそうじゃない。
夏目漱石はどうだったか。
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というわけで買ってみた。
アリストテレスは主に三段論法を研究したが、現代の時相論理のような研究もしており、一階時相二値論理のような形式を部分的に検討したことがある。特に不確定な未来の事象を扱う際、アリストテレスは二値の意味論を適用できないと考え、例えば「明日、海戦が勃発するだろう」といった文の真偽を現時点で決定できないとした[1]。
ディオドロスは
ディオドロス的可能態、「できる」とはいずれかの時間において現実化することであるらしい。時間をできる限り延長しても現れない場合は「できない」である。
現代の様相論理学もまた超時間的である.ルイスが創始した様相命題の記号 ◇pは,時 間変項を全然含んでいない.現代の記号論理学 は,もともと数学の基礎づけという目標のもとに出発した.そのため命題の具体的事例としては 「2+2=4」 のような超時間的.必然命題だけが考慮され,「あす雨が降る」という時間的 ・偶然的命題は公理化され た体系の中に組み入れられなかった.このような伝統のもとにおいてルイスの様相論理学もまた超時間的になったのである.
PP.1-2,様相と時間/杉原 丈夫
これはわかりにくいが、おそらく、「頻度」のことである。
アリストテレス体系ではこうでない。
アヴィケンナとはイブン・シーナーのことである。
イブン=シーナ/アヴィケンナ/世界史用語解説 授業と学習のヒント
「可能性において一一自然的な可能性ではなく, 論理的な可能性として捉えられる以上一一ー 多の内にあるーとは, 多のものの内にあることが矛盾を含まないものについて語られるのであり, この意味で共通なものは事象の本性の内にあることが可能なので ある 」 (Meta. VII, q. 13, n. 19)
P27,アヴィケンナの存在論との関連から見た,スコトゥスの個体化論/山内 志朗
(以下、山内)
「自然的な」を「頻度的な」、「論理的な」を「公理的な」と言い換えられるだろうか。そうとしたうえで、
「人間本性を, その人間本性を真に有する 基体から抽象 する一一例えば, 人間性が概念把握される場合に抽象がなされるように一一 場合, その先に別の抽象が残っているわけではない. そのように概念把渥さ れたものは, 純粋に( p rae ci se) それ自体なのであり, 自らと異なるものから 離れており一一アヴィケンナが『形而上学』第 五巻で「馬性は馬性以外の何ものでもない Jと述べているように一一ーそれ以外の何ものでもないからであ る J (Ord. 1, d. 5, pars 1, q. 1. n. 19)
P28,山内
赤字強調は引用者。
これは「同一律」(とその反対の「矛盾律」を言っている。
さて、刺激的な批判である。
agalma
★☆☆☆☆余りに通俗的で読者を誤解させ一般教養にもならない
2013年12月29日に日本でレビュー済み後半の第二部を見ても曖昧な畳長さに相異はなく、著者は寧ろそれを誇つて居る。
肝心の存在の一義性については
《アヴィセンナが形而上学、III,2-3、vii,1 存在の偶有性accidentia は quidquid est extra per se intellectum quiditatemのことだが、quiditasは何性でしかなく普遍(一・概念)でも個別(多・対象)でもない(第三のもの)(op.cit,V)。これは本質・述語quiditasが知解の内容intellectumに現実的に含まれてゐないといふことではなくquasi prius naturaliter praesupponit quiditatemのことだが必ずしもそれらが偶有性となるのではなく渾然一体となつた海ペラゴスでありunitive contentaであると措定する》(スコトゥスquaestationes disputatae,iv,2)238
馬性equinistasと呼ばれるそれが存在の一義性である言語(主語と述語)に分節以前の共有基体であり外部にあるものだが、分節した形相が潜在的に内包されてゐる239。》
これを説明するためには
著者は存在(esseや ens)や超越範疇は本来的に主語(基体)なのか述語(本質・属性)なのか、命題とは一体何なのか − 命題に繋辞estは不可欠ではない − を明らかにしなくてはならないが回避して居る。
明らかにした意欲作が(おそらく)これである。
「馬性は馬性である」をトートロジーと考えない。(言うまでもないが、「存在的な」ではなく、)存在論的な「同一律である」と喝破する。山内でも「個物である.故に, 馬性それ自体では, 馬性以外の何ものでもなし」( Avicenna , Philosophia prima, p. 228 f)が詳解される(P24,山内)
このような存在論的同一性を「実在」と呼ぶ。そしてそれは神(無限)や「矛盾律」と関係があるのであった(cf.デカルトの「神の存在証明」と「我思うゆえに我あり」の表裏関係)。
「 つまり, 共通本性とは対立する両項のいずれでもないが,「多におけるー」であり, 対立 両項を論理的可能性において含んでいるということになる. そして, これが「数的一性よりも小さい,実在的ー性(uni tas realis , minor unitate nume rali) 」の内実である.」(P27,山内)
「ライプニッツにおけるアヴィセンナの声──共通本性の系譜──」
山内 志朗 (慶應義塾大学)
以下のところでは, 二つの論点を扱う.第 一に,スコトヮスの「此性」が イスラム哲学からどのような影響を受けているか, 第二に,現代における 「此性」の解釈として, 多くの支持者を見出している「此性」=「裸の個別者(bare particular) 」という理解が妥当かということである.
P.1,山内
これに対する答えが
(pp.26-27,山内)
さらに、
(P.27,山内)
そして、それがカウサcauseとなる。
どこか、西田幾多郎を思い出させる。
..
西田はレンマという概念を使っていないが、弟子の山内得立がそれを自著『ロゴスとレンマ』で紹介している。その概念に従えば、絶対矛盾的自己同一における「絶対矛盾」とは四レンマ構成のうちで論理の側をなす第一、第二レンマと、もう一方の(背理の側をなす)第三、第四レンマとの間の矛盾であり、その矛盾を前にしては、自己同一は、それが論理の側のものであるため、安定性を失うというふうに形式化、簡明化できる。
絶対矛盾的自己同一 - Wikipedia
テトラ(4)レンマとディ(2)レンマ。
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- {(a⋀b⋀c⋀¬d)∨(a⋀b⋀¬c⋀d)}⋀{(a⋀¬b⋀c⋀d)∨(¬a⋀b⋀c⋀d)}
が同時に成り立つかどうか。
ロゴスの体系としての西洋文化に対して、レンマの方法による東洋文化はいかなる論理性を有するか。テトラレンマとしての大乗仏教の論理、ディレンマとしての老荘思想の論理を分析する。文化の階型を求める多年の思索の成果。
華厳宗については、聖徳太子から本地垂迹思想、華厳宗を経て西田幾多郎の流れで、"The Oxford Handbook of Japanese Philosophy (Oxford Handbooks) (English Edition)"でも紹介されている。
正直、中沢の著作は読みたくない。「サピエンス学」というのも、栗山慎一郎とかと同じ傾向なのだろうか。知らない。そういうものは信じないからだ。