One who loves the truth and you,and will tell the truth in spite of you.-Anonymous                    武者小路実篤10

 

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(P.43,夏目漱石先生評釈Othello - 国立国会図書館デジタルコレクション

That the bruised heart was pierced through the ear.


傷ついた心臓が耳から入った言葉で治ったのを聞いたことがない。

pierced through the ear 「耳から(聞いた言葉で)慰められた」"pierced"= penetrated with a smoothing power. しかし、ここは "piece" とした text も多い。

Othello Act 1 Scene 3 対訳『オセロ』第一幕 第三場

これがまったくわからない。
エスの磔を想起するからだ(ヨハネの黙示録)。
それに関係して、bruisedもわからない。paleなのか、injured,woundedとのニュアンスの違いがあるのか。

  1. 外科の歴史

    アンブロワーズ・パレ - Wikipedia
    外科医 - Wikipedia
    アブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー - Wikipedia

  2. 聖書の記述

    Isaiah 1-5 NIV - The vision concerning Judah and - Bible Gateway
    Isaiah 5-20 NIV - The Song of the Vineyard - I will sing - Bible Gateway

    このイザヤ書第5章20節は関係があるだろうか?
    イザヤ書 (口語訳) - Wikisource
    イザヤ書 - Wikipedia

    These sentences, to sugar, or to gall,
    Being strong on both sides, are equivocal


    これらの格言は、甘くもあり苦くもあり、

    どちらにも強く効き、曖昧なのだ。
    These sentences, to sugar, or to gall, Being strong on both sides, are equivocal 「こういう格言というものは慰めるにしろ、苦しめるにしろ、双方とも力が強く、曖昧でどちらにもなる」"sugar","gall"= annoy. を動詞に解する。"equivocal" 両義にとれる、はっきりしない、曖昧だ。

  3. 法学の歴史

    以上がグランヴィルとブラクトンに於ける「カウサ理論」の影響の考察である。十六世紀中、グランヴィルは 一五五五年にブラクトンは一五六九年に活版印刷化され、両書に含まれるカウサ理論(内容の異なるものであるが)も 影響を取り戻すことになる。それゆえ、第一のカウサ理論の第一波の再生と第二波とは重複することとなる

    P.133,大陸法に於けるカウサ論とコモン・ローに於ける約因論 菊池肇哉

  4. 文化の様相

    記号としての心臓 ―なぜ,血液のポンプが,愛の象徴になったのか? 関 沢 英 彦

から考えてみたが、判然としない。
ただ、3の「カウサ(着衣)論」は「裸の合意」でないことで(だから、「着衣」で、これは意思が優位に立つ前の歴史における、形式的要件具備のことだったが、「カウサ(cause:原因)」はそれだけを意味しなくなったらしい。

P.124「アゾ(d.1230)によれば、 「Vestitur autem pactum sex modis: re, verbis, consensu, literis, contractus coharentia, rei interventu (8) しかるに (※無方式)合意は六つの方法で着衣される。つまり、物により、言葉により、合意により、文字により、契約への付着により、物の介入により。 」(8) Azo, Summa Codicis, Lib. II, Rubrica “De pactis”, no.15.」ということである。

P.131『ブラクトンは「問答契約」と「合意」を混同しているようである』と言われるように、直感的に理解できるものではなさそうだ。)、

"It is the cause, it is the cause, my soul,--"

Othello Act 5 Scene 2 対訳『オセロ』第五幕 第二場

"And in the essential vesture of creation"

Othello Act 2 Scene 1 対訳『オセロ』第二幕 第一場

から鍵概念になる可能性を秘めているが(特に、クライマックスで"cause"が繰り返し出てくる。)、いまのところ見当がつかない。

また、頻出するsentence(「判決」「格言」と訳される。「格言」に関しては疑問。)とwordの関係も不明だ。

 

(P315,夏目漱石先生評釈Othello - 国立国会図書館デジタルコレクション)

I never knew
A Florentine more kind and honest.


フローレンス人でさえ、
こんなに親切で正直な人はいないよ。

I never knew A Florentine more kind and honest Cassaio は フロレンス人、 Iago はヴェニス人であるが、自分の同国人でもこんな親切な正直な人はいない、という。

Othello Act 3 Scene 1 対訳『オセロ』第三幕 第一場

これは当時の東京人の機微を伺えて興味深い。

 

 君のような親切な大阪人は初めてだよ

 

が「君」に対する褒め言葉と成っているのだ。言われた方は憮然としないだろうか?
文化庁 | 文化庁月報 | 連載 「言葉のQ&A」: 「憮然ぶぜんとして立ち去った」人は腹を立てている?
大阪ではだいたいこんな感じですよ、と言わないだろうか。
当時はフロレンス(フィレンツェ)が先進地だった(ここでは、東京に準えているが、当時は、大阪だって日本一の大都会だった)。

 東京の連中で君のような親切な人を見たことがないよ

 

だとどうだろう?
つまり、或る共同体と別の共同体の、相いれないところもある(或る程度排他的な)、住人同士の会話を示唆している(”damn'd”なのは、お互い様? cf.カトリーヌ・ド・メディシス - Wikipedia)。
他所のことは、わからない(から言及しない)のだ。
東京には、地方から人が集まって来るので、「地方の品評会」で「地方の格付け」が行われていただろうか。

(P73,夏目漱石先生評釈Othello - 国立国会図書館デジタルコレクション)

『オセロ』第二幕第一場の講義に際して述べたらしい。
intellectuallyにではなく、intelligentlyにだろうと思う。
賢いかどうかではない。「賢く」やるには、情報が要るのである。
美濃部にしても、漱石にしても、留学しただけでは限界があったのだ。

👆1494年のフィレンツェ共和国時代(図中赤下線ジェノヴァ共和国 - Wikipediaより)

フィレンツェの歴史。
1434年フィレンツェ共和国~1494フィオレンティーナ共和国~1527年フィレンツェ共和国~1532年フィレンツェ公国~1569年トスカーナ大公国
図中青下線ヴェネチア共和国、図中黄下線ジェノバ共和国

コジモ・デ・メディチ - Wikipedia
フェルディナンド1世・デ・メディチ - Wikipedia

『オセロ』が上演された1602年頃は最盛期で、フェルドナンド1世の治世下だった。

1580年代後半、トスカーナ大公フェルディナンド1世デ・メディチリヴォルノフランコ港 (porto Franco) とし、ここを免税特区にして貿易をおこなった。レッジ・リヴォルニーネ (Leggi Livornine) は、1590年から1603年まで有効であった法律である。これらの法律は商人の貿易活動、信仰の自由、懺悔のための恩赦を助けた。この法律があったためにリヴォルノは多国籍都市となり、地中海全体でも重要港となった。多くの外国人、ユダヤアルメニア人、ギリシャ人、オランダ人、イギリス人らが移住し、彼らは貿易を営んだ。

リヴォルノ - Wikipedia

赤字強調は引用者。

フィレンツェのギルド - Wikipedia

ギルドも発達した。

リヴォルノはイタリア・ルネサンスの間『理想都市』と定義づけられていた。今日、ヴェネツィアの一地区を誇張したような、運河が交差し、要塞化した市壁に囲まれ、通りがもつれる近隣住区の構造をとおしてその歴史が明らかになっている。
(同上)

赤字下線は引用者。

最盛期のスペイン(ハプスブルク朝)、イングランドとの100年戦争を勝利で終えたフランス(ヴァロワ朝ブルボン朝)、オスマン帝国の勢力争いとイタリア戦争の頻発で疲弊し、文化の中心地もフランスへ映ってゆく

👆「1400年当時のジェノヴァ共和国の領土及び同国の経済的影響下に置かれた地域」(ジェノヴァ共和国 - Wikipediaより)
図中引用者による赤下線が、キプロス王国(下図も同様)。

1400年頃にはフィレンツェジェノバ共和国の影響下にあった。

👆「ヴェネツィア共和国の領土の変遷」(ヴェネツィア共和国 - Wikipediaより)

キプロスの歴史も激しい。

キプロスの歴史 - Wikipedia

1191年イングランドが占領~テンプル騎士団へ売却・十字軍占領・キプロス王国14世紀東ローマ帝国によりジェノバ共和国へ授けられる(フランス系支配)~1489年ヴェネツィア共和国へ売却~1571年オスマン帝国が占領・1573年ヴェネツィア共和国からオスマン帝国へ割譲~1821年ギリシャ独立戦争1878年イギリスが占領~1914年イギリスが併合~1960年キプロス共和国成立

1821年のコンスタンティノープル総主教処刑に始まり、イズミルエディルネテッサロニキキプロス島ロードス島クレタ島などで虐殺が行われた。

ギリシャ独立戦争 - Wikipedia

なお、「1381年 トリーノ条約によってヴェネツィアとの百年戦争ジェノヴァ劣勢で終結する」(ジェノヴァ共和国 - Wikipedia)。その後、「ジェノヴァ共和国は、フランスの支配を受ける」(1396年〜1409年 )。

東ローマ帝国ことギリシャ帝国の影響範囲の拡大とともにギリシャ商人が地中海で活躍した時代もあったらしい。
プラトンは近代まで読まれなかった」のはギリシャ帝国の盛衰と関係があるようだ。
マグリブユダヤ人だって、アリストテレスを踏まえていた。

1025年の最盛期(東ローマ帝国 - Wikipediaより)。
マグリブ商人の活躍した時期でもある。

1400年。

そして、18世紀後半にアメリカが独立し、地中海に材木を売りに出てくる。

第一次バーバリ戦争 - Wikipedia
第二次バーバリ戦争 - Wikipedia