Roxana

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

エマの語源ってユニバースだったんだね。

ユニバースは、ユニ(1つの)+バース(変える)で、欧印祖語で、wert-(回す)だから、ワルツに近い。

そういう意味だね。

Gratia non tollit naturam, sed perficit is translated as 'Grace does not destroy nature, but perfects it', or 'grace does not remove nature but fulfills it'. This Phrase is the word of Thomas Aquinas (c. 1224–1274).

Photograph your local culture, help Wikipedia and win!Hide Gratia non tollit naturam, sed perficit-Wikipedia

「恩寵は自然を破壊せず、むしろこれを完成する」は『神学大全』における、トマス・アクイナスの言葉だけれど、

P.93「アウグスティヌスにおけるような理性と信仰、あるいは自然と恩寵の間に鋭い対立はない。」

これは『エマ』

She felt for Harriet, with pain and with contrition;but no flight of generosity run mad, opposing all that could be probable or reasonable, entered her brain.She had led her friend astray, and it would be a reproach to her for ever; but her judgment was as strong as her feelings, and as strong as it had ever been before, in reprobating any such alliance for him, as most unequal and degrading. 
P.391

これは

Mr. Elton was the very person fixed on by Emma for driving the young farmer out of Harriet’s head. She thought it would be an excellent match; and only too palpably desirable, natural, and probable, for her to have much merit in planning it. She feared it was what every body else must think of and predict. It was not likely, however, that any body should have equalled her in the date of the plan, as it had entered her brain during the very first evening of Harriet’s coming to Hartfield.

P.30

をうけてのもののようだ。このprobableはトマス・アクイナスの「臆見」であるだろう。

Is He to be considered to understand the cause of the soul, Who seeks to separate it from the sin of wilful transgression, enabled as it is to receive the law by the endowment of the habit of reason? Or how can His generosity be known to any one who says it was despised on account of its ignoble sinfulness?

Saint Aquinas Thomas. Summa Theologica, Part III (Tertia Pars) / From the Complete American Edition (Kindle の位置No.1395-1396). Kindle 版.

 

「意識の流れ」で有名なこの作家の文章に触れて驚いたが、(その勝手なイメージと相当異なり)余白を排除した厳密な読解を要求して、緊張が途切れない。このまま受験に出て来そうなものである。
緻密な幾何的構築物で在り、繋がりを誤ると、まるでナンプレ数独)のように、或いは繊細なトランプタワーのように、儚くその意味の構築が崩れ去りそうである。

上述の引用に[A][B][C]を付する。[A]の理解、就中、

  but no flight of generosity run mad, opposing all that could be probable or reasonable, entered her brain.

の理解が目標である。

意味の引用に関して一種の「関数」のような「自由」な関係を以て制限されているから、要は、[C]の引用を以て(その関係から)[B]が理解され(このとき、[C]が[B]に対して「自由」な;すなわち、独立した意味を持っていることを指示する。反対から言うと[B]はその引用に関して[C]に「従属」している。)、[B]の引用を以て(その関係から)[A]が理解されるのであるが、(天下り的な抽象的な理解の反対に)具体的には、[A]を以て[B]が解説され、[B]を以て[A]が解説する、(具体化された事実からの)帰納性が認められるので、それらのアマルガムな中間命題(中名辞)を担う[B]から読解を始めたい。

※トマス・アクイナス(the very person)はまさに(the very first evening)こう言っていた。
※「分別」の最初。
【Kei式】morningやeveningには、なぜingがついてるの? | 【Kei式】スプラウト塾ブログ。ただし、日没を1日の始まりとする考え方があるという。このことについて書かれている資料を見たい。|レファレンス協同データベース

したがって、弁証法的三段論法は臆見を作り出すことを目的としているので、弁証家は最善の臆見の基盤、すなわち、多くの人、また特に賢者が支持している事柄のもとで進めることだけに努めている。そこで人が弁証法的な推論を行うときに、実際には中名★8を通じて証明できるかもしれないが、その蓋然性のために自明だと思われるような命題に直面しているとしよう。弁証家はこの命題だけが必要である(AquinusⅠ.Post.An.1.38.n.258)。

★8 中名辞とは二つの前提と一つの結論からなる三段論法の両方の前提に含まれ、大名辞と小名辞を媒介して結論を成立させる名辞のこと。

P.37,第三章臆見,『確率の出現』

※引用者註 目次に載せられているアブストラクト(概説)を以下に付する。

ルネサンス期において、当時「蓋然性プロバビリティー」と呼ばれていたものは臆見の属性であり、論証によってしか得られない知識と対照をなすものであった。蓋然的プロバブルな臆見とは、証拠によって支持されるのではなく、ある権威によって、すなわち尊敬されている裁定者の証言によって是認されるものであった。

赤字強調は引用者。

 2は、思いなし(ドクサ、感覚知)、女性

ピタゴラスにおける数の意味の割り当て | TANTANの雑学と哲学の小部屋

であるところ、

プラトン等は、イデアによる学的で理性的な知識であるエピステーメーに対し、それよりも一段階低位となる感覚による知識や知覚・意見をドクサと呼んだ。臆見や臆説などがドクサに該当するためである。

ドクサ-Wikipedia

アクィナスとスコラ哲学にとっては、

  1. 実在的な不可謬な知識が真正の目的であり、それに達することもある
  2. 知識とは臆見と区別されるもので、またより優れたものである
  3. 臆見は、論証では得られない信念や教義について言及している
  4. (引用者註:臆見は、)普遍的ではないが、論証できない信念や命題にもあてはめられる
  5. 感覚から得られる信念は評価(aestimatio)と呼ばれる
  6. 臆見とは蓋然性プロバビリティーの担い手である
  7. 一般的に臆見の対象は知識の対象となりうる命題の類ではない

(P35,同前)

要は、臆見とは、具体的な事柄に際して「「判断」を引用できる」との判断である。それは「論証」ではなく「評価」でもない。独断を妨げない権威付けである。権威を「付けて」判断を「繋いで」いる「仮称」が本質であるようだ。「仮」ならそれでいいじゃねえか、との便宜であるようだ。

 

さて、[B]である。中心は”for driving the young farmer out of Harriet’s head. ”の”drivng”にあるようだ。driveが他動詞であるとき、その最初の意味だろうと思う。

  1. drive a person out of a country
    人を国外に追放する

これとは別に6の用法もある。

  1. 〔人〕を駆り立てて・・・の状態にする;余儀なく・・・させる(impel,compel)⦅…to,into⦆
    • drive a person angry
      人を怒らせる
    • drive a person to despair
      人を絶望に追いやる
    • drive a person out of senses
      人を狂乱状態においやる

(P600,旺文社)

このとき、前置句は副詞句であるが、事実上、目的語(O)の補語(C)と同じ働きになっているようだ。すなわち、

    • a person looks angry
    • a person  happens to despair
    • a person becomes out of senses

であると思う(若干の考察として、seem が使えるか考えたが、driveはその原因を—主語に於いて—挙証しているので、その判断が客観的であると思った)。
ならば、このとき、”the young farmer” は 誰かと言うと、Harriet と drive から同定できるのだが、あまりに晦渋な(持ってまわった)言い方で不自然であるので※、やはり1である。若い農夫をハリエットの頭から追い出したようだ。その意中の人がミスターエリオットらしい。そうすると、自然な文章の繋がりで読解できる。
つまり、英語には、順序が在る。
いきなり躓いてしまった。反省。
※driving Harriet out of this young farmers' head.ならあり得るだろうか?つまり、out of his/her controlであるが、このとき、敢えて属格化する文法的意義は認められるかである。例えば、he is out of my control/he is out of control のとき、後者にhisを付けることがあるかである。或いは、head/control/senseのニュアンスの違いである。

 

あまりに濃密な内容なので、混乱しないように、ポイントをあらかじめ[note]に整理しておく。

  1. it は何か―fixing(onーfor driving~)
  2. したがって、match は
  3. このとき、planning it-for driving~
  4. ”probable or reasonable”のreasonable-much merit (in planning it)
  5. however-but
  6. (not)should have equalledunequal
  7. in the date (of the plan)-during the very first evening
  8. driving the young farmer out of Harriet’s head-no flight of generosity run mad

1が fixing なのか、for driving~なのか、考えたが、fixingのときに、2乃至3を説明できる。plan(it)はその具体化である。
4の or がこの説明の主旨を構成している。すなわち、「アウグスティヌスにおけるような理性と信仰、あるいは自然と恩寵の間に鋭い対立はない。」
5は当時としては新しい語形だったようだ(howeverの元となる語は14世紀からあったらしい)。それはともかく、butより強いニュアンスがあるだろうか。
6は文法の問題である。
7は”as”で接続される論理的な関係である。
8の”run”はpast perfect(で "generosity" を形式的に修飾している)と思うが、この”of”の意味合いで在る。「同格」でないと不自然に感じる?和訳としては、或いは、”of generosity”を飛ばした flight run mad で十分自然に感じられる。
そのような用法(離れて修飾)が(この場合)あり得るのだろうか?

このとき、generosityが前もって定義づけられていなければならない

Google翻訳で、[C]は、

故意の違反という罪からそれを引き離そうとする魂の原因を理解している神は、理性の習慣の賜物によって律法を受け入れることができるようにされているのでしょうか? あるいは、神の寛大さは、その卑劣な罪深さのために軽蔑されたと言う人に、どのように知られるでしょうか?

となるが、如何。


ここでの主張の一つが、文法は文化である、ということである。

(文法に依って操作される語彙やイベントだけでなく)文法自体が抽象的な論理の具体化であり、その限りにおいて、文法を理解すれば「論理的」に考えられる果実を(或いは)手にするかもしれないが、それはあくまで論理の反映である。
文法は論理を超えないが、論理自体には具体的な指示内容がない。文法自体に具体的な指示内容が「ある」かというと、「付随する」のだろうと思う。
論理から具体的な内容を直接引き出すことが困難なとき、文法がいわば「レンズ」の役割を果たすのだろうと思う。
文章の正しい読解に論理が必要であり、読解の共通の利益を得るには文法が求められる所以である。しかし、文法に依るだけでは、十分に正しさが保証されるのでないのは自明である。

日本人が『ハムレット』を読むと、なぜか日本人の死生観が反映されて違和感を持たれない理由である。そもそも「生きるか」どうかで悩むはずがないのである。
仏教徒、そうでなくても現代人じゃないんだから。
それくらいなら、エイゴよりさきにむしろ、エイガである。

このような世界構造を与えられたとき、どう具体化して理解するかが問われる。


これは案外皮肉以上の意味があって、

前回の

(www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。)

(b)語用論的解釈は文の意味と文脈の相互作用から体系的に導き出せること。

 このように、意味論は文の中で直接表現される、あるいは符号化される意味について扱い、語用論は発話が文脈の中で実際に解釈される方法を説明する原則を扱う。 語用論の中心的な原理は、発話の解釈プロセスの大部分を左右するもので、発話受け手はその発話が関連性のあるものだと期待し、通常はそれに基づいて解釈するというものです。

Huddleston, Rodney; Pullum, Geoffrey K. (2002-04-14T22:58:59.000). The Cambridge Grammar of the English Language (p.38). Cambridge University Press. Kindle 版.

でいう、「発話受け手」(原文では、”the addressee of an utterance”)は、文脈上の主語のことを言うからだ。そして、私たちがなぜ、「主体」と「主語」をうまく区別できないかは、極めて文化的だからである。

スコラ哲学の形成を考えたときに、アンセルムスももちろん重要であるが、一般的には、アウグスティヌストマス・アクィナスに着目する。
しかし、もっとも重要な事実は、その間にガザ―リーが居たことである。
アウグスティヌスも異教的であるが)トマス・アクイナスがなぜ、あのような奇妙な学説を構築したか?

私たちは、ガザ―リーを見落としがちであるから、そのように感じるに過ぎない。
キリスト教キリスト教たらしめているもっとも重要なドグマは、キリスト教が「無から有を生んだ」ことを主張するからだが、実はガザ―リーがこのことに(哲学者に反論する体で)明確に答えている。
すなわち、時間論(時間の無始性への反論)である。

 神と世界は「前後」ではない

 

と具体化されることで、

 

 神と世界は存在と非存在である

 

がゆえに、

 

 神と世界は存在と存在でありうる

 

という定式化から導かれる。
このとき、神が「意志あるもの」であり、すなわち「主体」である。
このような理解のもとに秩序が与えられる。これが、ラッセルの「世界の外」の原型であり、或いは、ヴィトゲンシュタインへの批判の根拠であり、論理的であるとは、このことだったのである。

反対から言うと、ライプニッツはどうかはわからないが、カント以降のドイツ哲学はこれを隠すことに最大の力を注いだと見えなくもない。
つまり、ルネサンスとは(イベリア半島の奪還による「力の回復」とともに)「イスラム化」(精神の支配)であったところ、近代化とは、「脱イスラム化」(本質は「イスラム化」の隠蔽)による「精神の回復」だったように見える。ヨーロッパ世界は「地中海世界」の辺境に過ぎなかったのだ。このとき、「バルバロイ」が、それを成し遂げた。

したがって、私たち日本人は、ヨーロッパの文化を考えるときに、従前の大陸的/海洋的の区分を見直さなくてはならない。地中海(内洋)的/内陸(辺境)的/外洋的である。そうすると、「イギリス」という「歴史的被支配地域」が奇妙な立ち位置に居ることが分かる。ヴァイキングとフランスの被支配民だったかれらは、また、(彼らこそが、元来北欧の雄と思われてきたヴァイキングの正統な地位を受け継ぎ—北欧の雄はむしろ内陸へ向かったが、地中海世界にまたがる大帝国のロシアに敗北を喫することとなた。一方、イギリスは、フランスとの対立と競争以上に内陸の混乱に巻き込まれることなく)外洋の支配者になったのだ。
もっと奇妙なのがアメリカで、ヨーロッパ列強の「虫食い」状態だった独自の「大陸」が、大陸の混沌ゆえの衰弱を尻目に、唯一無二の存在となった(中国「大陸」はこのアナロジーに過ぎない※)。アメリカ人の最初の対外戦争が、地中海の古い秩序に関係したことが彼らに大きな物語を与えている。このとき、アメリカ人の「敵」は、地中海の南側沿岸の国と地域であると同時に、間接的に北側のフランス或いはイギリスでもあったのだ。アメリカこそは、地中海で勝利し、外洋で勝利し、内陸で勝利した、ヨーロッパを中心に考えたときには、歴史的な「世界」で完全勝利を成し遂げた唯一の国である(フランスに勝利したイギリスはそれに近いが、ドイツとロシアに勝利したとは言い難い)。

※実を言うと、中国を「中国」たらしめているのは、巷間説明される「アジア的専制」である以上に、実のところ大日本帝国の支配とも関係して「近代国家的」であることであり、これは実は、イスラエルの(伝統的ユダヤ教徒が批判する所の)シオニズム運動のロジックでもある。ネタニヤフは「アジア的専制」と無関係であるが、彼の「右傾化」は「近代国家化」に根ざしている。
要は、「アジア的専制」ではなく、或いは、それ以上に、「ヨーロッパ内陸的、、、全体主義」である。

大日本帝国は不可思議な「無謀」な戦争に向かったことが言われるが、実は、(ウクライナロシア戦争によってようやく衆目に晒されたように)、その点疎い人たちの誤解と関係がなく、ヨーロッパ内陸的な「力の均衡」への志向を前提とするならば「常識的」な考えにいまだ沿っていたのであり、むしろ「穏当」な考え方ですらあったのだ。何人かの人がロシアを擁護し、いまだに擁護を続けているように、或いはいくつかの国で、戦後のロシアとの関係を「穏便」に済ませようとロシアの混乱を「無視」するように。それが「現実的」だからだ。アメリカがその例外であるにも関わらず。

もっとも短絡的な言い方を敢えて選択するならば、戦前の我々はいつだってドイツ人ドイツ人の「世界主義」に騙されてきたのだ(アメリカ人、フランス人、イギリス人が日本国内で活躍していたにも関わらず)。
その「ドイツ人の「世界主義」」とは、何のことはない、歴史に鑑みれば、「脱イスラム化」の方便がもっとも主要な意味だったに過ぎない。イギリスのビクトリアが夫のアルバートに支配されていようとも。

これは私たち日本人の「夜郎自大」ぶりとも関係がある。
すなわち、日露戦争の意義を語るとき、西洋支配からの解放の文脈で騙られることがあるからだ。そのような「直線的」な構成を歴史は採っていなかったのだ。
そして、林銑十郎から橋本欣五郎あたりの或る意味穏健なイスラム擁護から頑迷な全体主義傾向に至る系譜を考えるときにも、その複雑な彩を考えなければならない。彼らが間違いなくエリートだったことがあまりに無視されているのである。

世界は私たちが考えるほど「正直」ではないのだ。

ロックを覆うホッブズの影をめぐって トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』訳者解題

なるほどと思うところがあった。

トマス・ホッブズが実は、スコラ的、すなわち、アンセルムスからスマリヤンに至る、すなわち、(或る意味批判的なニュアンスも実は含むのは、これがもともと秘儀による「擁護」だった―就中「三位一体」の擁護だったと思われる—のが歴史的事実だからであるが、それを脇に置いた用語として)「論証」から様相論理に至る過程の重要な一人に位置付けられるとき、ロックの歴史的意義がよくわからなくなっていた。
ホッブス対峙して、、、、「契約」だったのである。
このとき、ホッブスが幾何的な観念に依っていたことが、解析的な技術に革新をもたらした天才ジョン・ウォリスと数学論争を演じた(ホッブスは、残念ながら、数学的には明らかに誤りであり、歯牙にもかけられなかった※)のが象徴的であるように見える。

※これはマルクスを考える時にも興味深いと思う。マルクスも所詮はオカルトなのは、「幾何的」な意味で「科学的」だからである(主要な技術は、実のところ、イタリア人数学者ルカ・パチョーリのおかげであるし、それから「古典派」経済学を解釈したようである、だから宇野の業績は一般的にはほぼ意味がないが、解釈的な意味で、文献考証の役には立つ。「ソ連」を成立させていたのは、マルクス主義である以上に、公理主義である。だから、人文学的には、奇妙なオカルトだったのである)。

だから、マルクス主義を打倒するのは、ギリガン主義なのであると思う。
彼女はアメリカ人であるが、それに先立って、イギリス人が居たからである。
すなわち、道徳哲学を復活させたフィリッパ・フットが、戦後的な正義の観点から、議論を興したからである。マルクス主義は、戦前の亡霊に過ぎないのであった—実のところ、「戦前」と言っても「前期近代主義」であるところ、ソ連が延命させた。詭弁で「ソ連は真の「マルクス主義」ではない」と言われて、形式的にはそれが「健全」に見えても、それが真に言い当てたい「真実」から考えると、マルクス主義が明らかに間違っているところを技術的には正しい数学が延命させてきたに過ぎない。そもそもマルクス主義は幾何的世界の嫡嗣に過ぎないのだ。
なぜなら、それを「道徳」と適切に捉えることが、「科学」と混乱させるオカルトとの決別にとって、本質的に鍵となるからだ。我々の現在の社会の構成にとってもいまだに道徳が必須だからである。
だから、「道徳」やそれをもっぱら排撃する「科学」には警戒しなければならない。
ここから私たちにとって重要なことを言うならば、道徳は道徳でなければならない、ということである。「科学」を僭称してはならない。
そしてこれを付け足さなければならない。
私たちは、それを、科学(或いは「科学」)の観点から道徳を非難するときに犯しがちである。
ということである。