マッチング(つづき)

 

markovproperty.hatenadiary.com

 
1321)素数
これくらい大きな数だと、エクセル待ちで難儀するが。
1321は、等差数列で作られるユニットで、240に均等分割される素数である。
今のところ、「(等差数列で作られるユニットで)均等分割される」のが素数であることが観察されている。素数だけがそうかは知らないが、素数の性質の候補の一つである。


Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。 Alexandraの愛称は(   )である。
A  Alex
B Alexander
C 男性
D 女性

この設問に対して、子どもたちが38%の正当率しかなかったとかで。
なるほど。正解したからと言って、自分だって、子どもの頃には、間違えたかもしれないし、大人になった今でも、あくまで、文の構造から答えを導いたのであって、文の意味から判断したのではない。
子どもにしろ私にしろ、国語と謂うのは、主に日常会話や読書などの経験から学び取っている、行為の帰結であるから、自然とそのように考えてしまって、愛称は名前であることに違和感を抱いているのである。経験的な行為に鑑みれば、愛称は前提となる「名前」を簡略化したことであって、その「名前」とは異なる何かであって、「名前」ではない。しかし、意味論、というか、概念から考えると、愛称も名前の一種であって、意味の制限された名前、ある「名前」を簡略化して改めて付けられた「名前」である。
分かりやすく言えば、例えば、名前が本名を指すなら、愛称は本名ではないから、愛称は名前ではない、ということであろうか(しかし、「本名」がそのまま表現しているとおり、「本当の」と制限された「名前」であって、「本名」だけが名前ではない)。
比喩的に言うと、名=名前⊃愛称、である。ここにあるのは唯の名であって、対称の実質を表す何か、対象と不可分の一部ではなく、「名前」と「愛称」を、定義以外の(実質的な何かがあると錯誤した)意味で区別する必要はなく、(構文的理解ですらなく)言辞運用の形式的理解だけでよかったのである。
そして、経験に依存したとき、最期の設問となっている文の理解についても、日ごろ(その程度の文法上の誤りは、それと知らずに)「正しく」流通している文として、回答が選択されるのであって、このように2重の錯誤についての(アブダクティブに正しく類推され、その錯誤を検出できない)ある確信があるとき、間違えやすいようである。これを非難できるかというと、人間は「間違い」をすることによってそれが間違いであるとの評価を受ける経験をすることでフィードバックして理解する社会性を備えている、としか言いようがない。この子たちが特別「頭が悪い」とするなら、スコラ派からケンブリッジの奨学生であり将来を嘱望された数学者であったドルジすなわちルイス=キャロルに至るまで、同様に「頭が悪」かったのであり、人間の素直な認識に従うとどうもそうなりやすいらしいことは、わかる(もちろん、彼らは、当時最高の頭脳の持ち主であった※)。人間に必要な能力だったのだろう。
※まさにこのような錯誤(名に意味上の内実(を持つ包合関係)を求めたこと)がドルジの(古典)論理学者としての限界だったのであり(或る名前それ自体は、今では、ただの「点」である)、そこからAlice in wonderlandは生まれたのであった。

⇒類似の例)ロケットニュース

 

 

アリスの論理―不思議の国の英語を読む (生活人新書)

アリスの論理―不思議の国の英語を読む (生活人新書)