弁証法的問い アンチテーゼと反論

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アンチテーゼ - Wikipedia

P57から必読
http://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/kiyou/data/kiyou18/05_sakamoto.pdf
分析的/弁証法

今回の北大の試験は、まさに弁証法的問いで、テーゼ/アンチテーゼの対立を構成できたか、昨日も触れたように、そのために対立軸(という見えない前提)を(想像力を働かせて)見出せたか、ということになるのだろうと思う。
対抗案などない、というバカげた社会に生きていると、そういうことが見えなくなるのが心配だ。
北大の試験の場合、バカロレアと違って、哲学に関しての知識の習得と技術の習熟を見るのではないから、そこらへんは「独創性」を発揮して、と自分は言ったのだけれど。
だって、北大を受験する、一般的な日本の高校生に、"ベルグソン""アンナハレント"なんて問われるわけねーし(習ってねーし、カリキュラムにもねーんだから)。

http://www.shikoku-u.ac.jp/education/docs/6-41.pdf

特に日本の企業の場合、「中間団体」という視点が欠かせないけれど(戦後の国力の乏しい時期に、(企業内)福祉の担い手、「保険者」として期待された経緯もあるしーここらへんはアメリカの黄金期の自動車産業と比べても興味深いが、もともとは革新官僚岸の、戦前からの公私一体化のリベラル政策(国家=社会、という独特の国家観を前提に、その「入れ子」としての、企業=社会。)と政治力だろうと思うー、高度成長期を支えた、移転労働者の受け皿としての疑似共同体という側面もあったが)、高校で習うのは、「金の卵」という言葉と簡単な説明で、そこから分析的知性を問うのは、酷だろうと思う。つまり、「帰るべき(ムラ)社会(安定した感情的基盤と基礎的生活基盤を与え支える、相互扶助社会)」が会社の中に出来た、という転倒した一面にスポットを当てざるを得ないって大学にもまだ入ってないのに、そんなこと高校生にわかろうはずもないので、トピックだけで、tennkin等々でいいんじゃないかと思った。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no84_01.pdf



最近だと、「サンクコスト」か。
これはね、根深いんね。というのは、法学と会計学の、カテゴリーミスが原因だと思われるんだね。
法学は、行為評価で、継時的もしくは追加的、並びに統合的評価、会計学は、科学的推論で、同時的並びに分析的評価、という違いがあるんじゃないかな。
以前までなら、「相殺」を巡って、対立点が浮き彫りになったんだけれど、最近は「サンクコスト」がそうなんだな。
来年は、これ出せばどうよ。
もちろん、「サンクコストを理解できない奴は」云々、という幼稚な話じゃないよ。
👆と同じで、テーゼ/アンチテーゼでね。




すべてのアンチテーゼが反論かというとーYesだと思う。
すべてのアンチテーゼが同じ反論というとーNoだと思う。
つまり、可能なレベルの違いで、テーゼは内部構造を持つと同時にまた、それ自身も内部と成る、ということである。

最近の若い人が括弧付きの文章を書く、ということについて。
野矢の議論から敷衍すると。

 

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

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上掲のバカロレアに関する論文でも言っているが、まずは、言葉の一つ一つの意味の確認が、大事である。
モノを考える、とは、従前の語彙を括弧に入れて、(意味上の)内部対立を見出す、ということなら、拙いとはいえ、評価してよいと思う。
論理が意味の制限の手続きで、語彙の演算と表現できるなら、(従前の意味を保留して、語彙を入れた)括弧(node)を繋ぐ(link)手続きの一環であるし、文章と論理図の間に在って、半ば図像化する試みだと思えば、そんなものだろう。
むしろ、今までの国語教育では、あまりに論理を教えてこなかったところ、自ら工夫を試みているのだから、過度に腐す必要もあるまい(ただし、所謂「コンビニ敬語」が、日本人の振る舞いの表現としての本質はついているが、日本語の表現としておかしくなるように、注意は必要である)。今までは、流ちょうな美文は書けても、感情表現以外の内容はなかったのである。そこに訥々と引っ掛かりを覚えているのだから、考える1歩を踏み出したのではないだろうか。
今は、初等教育課程(並びに中等教育課程)で、プログラム(アルゴリズム)教育を、中等教育課程で、場合によっては、バカロレアを導入して、論理を直接教えているので、そのうちこなれてゆくことを期待しよう。