【メモ】教育と比較優位

教育は社会評価の再生産工程であって、学校制度は再生産図式(表)で説明され、またその中核は資産形成であり、技術限界としてのマス教育がある、ことはさんざん述べてる。 
資産形成であることから、比較優位が問題となるだろう。そのため、学校は知育優位から体育優位に傾くだろう(知育は他の投資に置き換わることが可能で、体育に対する比較優位を失う※)、ことも「学校は体育(部活動含む。)の為に在る」として述べた。
※知育/体育、不動産/非不動産(通信インフラ等)、学校/非学校(塾等)の立体(8象限)上の問題となるのではないか?
その先がけが、大阪の現実だろうか(ただし、この学校についてはコーチの存在が特異で、一般化できないのだが、可能性として語ることはできるだろう)。

👇生徒の7人に1人がダンス部で、その半分が、ダンス部に入りたくて入学した。

markovproperty.hatenadiary.com

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👇あいかわらずのコメントが多いが。

newspicks.com

ここで重要なのは、

進路指導に対するニーズが増えている一方で、民間の塾と公立学校との間で、相談体制や情報量に格差が生じてしまっている。

こうした実情を踏まえて、モデル事業は、自分の将来を考えるのに必要な情報を、児童・生徒が等しく得られるようにする狙いがある。

つまり、塾に行けない子供のフォローアップという補完機能を果たすことで、一方実は今では学校はすでに社会において行かれているという現状認識があって、プラットフォーム機能の強化が狙いだろう(もともと、明治の社会づくりからして『学校中心』が企図されたのであって、それ以来の伝統とも言えるが、むしろ重要なのは、現在における社会の変化に相対化される学校の意味の変化)。
これが、学校のネットワーク化に寄与するなら、歓迎すべきである。ネットワークがインフラとして構築されたのちは、よりそれを活用するために、ダブル・スクール化、マルチスクール化が進められるべきである。
体育の進展に関してと、知育の進展に関して、述べた。比較優位により、より一層分化してゆくだろう。

比較優位 - Wikipedia絶対優位 - Wikipedia

絶対優位と比較優位の比較
視点 絶対優位 比較優位
提唱者 アダム・スミス デヴィッド・リカード
生産要素 労働量資本力 労働生産性
生産要素を誰と比較するか 他者 他者
他の経済主体と何を比較するか 労働生産性(最大化) [生産性⇔機会費用]
何に特化するか 他の経済主体より得意な分野 機会費用の低いもの(生産性の高い方)

Wikipedia比較優位/概念)
優位論は、国際分業(経済)の説明だが、学生のころからずっと、社会セクター間の取引(経済)でも同じではないか、と考えていたが、いかがか。

👇立命館ってなかな興味深い大学で、西園寺さんの肝いりとか、京都大学の先生方の経済的支援から始まったとか、石原莞爾を戦前も戦後も呼んでいるとか。石原と言えば、世界主義だからね、石原の意志とは無縁だろうが、今の立命館太平洋大学の国際性は注目に値する。言いたいのはそういうことではなくって、

president.jp

グローバル人材ということで、英語に目がゆくのだけれど、じゃあ、小学校での英語の教科化も正しいか。
本当に着目すべきは、採用担当者の『よく勉強している』であって。
英語は自分で勉強するのが基本。学校はそれを補完することしかできない。
で、小学校では、家庭学習の比重が大きくなることを意味する。最近の宿題の過重化を見ると、すでに土地は開墾されているとみてよいだろう。「ゆとり教育」で露呈したことーとういうより、開き直ったことの一つは実は家庭教育の重要性であった(当たり前と言われそうだが、本来学校は、学校内で指導を完結させるもの)。反転授業になるともはや、学習の主従の主は家庭教育である(学校は従である※)ことを素直に認めている。※日本の学校はこれに若干抵抗していて、あくまで学校を主と考える(考え"たがる"ー教師の満足とは相応しないように、児童の負担が増える一方であるにも関わらず)。
マス教育と英語教育は非常に相性が悪いのだが、一部で期待されているデジタルの活用は、学校がマス教育を止める、即ち学校が「学校」であることを止めるときに限り、成功するだろう。英語はそもそも選択科目こそ相応しかったのである。問題は、それを学校が十分認識して、プラットフォーム化につなげられるかどうかである。反転授業の(主従逆転。「主」の獲得)先に在るのがマス教育の崩壊(主の自律)であるならば、望ましいことである(そして、だからこそ、学校はソコに拘って手放さないのだが)。


もちろん、情操教育など、共同体の一員として必要な資質をはぐくむ教育も行われるのであるが。

 集団化のために一律に教えるのか。一律に教えるために集団化が行われるのか。

ここで、学校には、中間団体(社会)としての機能も加わる。
類似の集団に、家族という中間社会がある。これは、大きな社会の一部でありながら、独立した「個」としての社会であり、社会費用の負担の受け皿となり、個人を引き受けて為す社会化の機序となっている。個人に対しては社会であり、社会に対しては個である、両面の機能をそれぞれに対して持っている特殊な団体である。
学校もこれに類して、集団化は目的であり、また、技術要件である。

 親子の定式化

を基に、学校を定式化したらどうなるだろう。
実は、まんま、マルクスの言う搾取となる。児童は学校にプールされ、学校に(自由並びに自律的意思との引き換えの能力を)搾取されている※。
当たり前の話で、近代主義とは社会主義のことであり、社会主義はその計画性により搾取するシステムだからである。国家だから搾取するのではない。もともとの村落共同体にそのような側面がなかったわけではないが、「ずれ(による循環の達成)」を応用することにより、一部解消していた。近代の際立った特徴が、この「ずれ」の解消だからである。それが合理性である。「見合う」ことによる「解消」が合理性であって、「唯物」と呼ぶ必要も、「科学」と呼ぶ必要もないのである。そしてだから矛盾する。親子や学校と謂った、部分社会の持つ双対的な性格によるレンマ(パラドックス)である。それがいかにもマルクスが数学っぽく見える理由でもあった(数学は対称の学問であり、マルクスはおそらく数学そのものよりむしろ簿記に影響を受けたのではないかと憶測するものである。つまり、或る数学者はマルクスの説明した「見合い」と数学の本質である対称を勘違いしたのである。マルクスの学問は、キリスト教ー神+簿記、で説明できる※。日本人はそもそもキリスト教をまったく知らないと言ってよいほどだし、簿記についても知っているような知らないようなということならば、マルクスの壮大なはったりに騙されただけなのである。嘘は壮大であるほどよいと言ったのは誰であったか)。搾取は生産手段によっておこるのではなく、生産関係構造の素となる認識の表現(生産関係構造)によって起こるのであって、生産手段もその一つに数え上げることはできるが、その一つに過ぎない。だから、共産主義でも当然、搾取は起こる。資本をプールしようが、人間そのものをプールしようが、同じである。

※簿記は科学だと云われることがあるが、そのときはじめて、マルクスの理論も「科学」であると言えるが、これは自然科学の予想(予言)とはことなり、あくまで制度上の予約である。簿記は結果から逆算して平準化して考えるだけだからであって(記述的側面)、それをもとに結果の利益を得るために規範化するだけだからである(行為的側面)。即ち、「リベラル」こそ、もっとも過酷な近代主義を呈する

チャヴ 弱者を敵視する社会

チャヴ 弱者を敵視する社会

 

 

それならば、学校による搾取を解消するにはどうしたらよいか。「ずれ」を取り戻せばよい。学校を新たな循環構造の一部に解消すればよいのである。それを実現するのがマッチングの技術だろうと思う(バウチャーはこのマッチングの技術の一つであって、その逆ではない。つまり、所与の条件下でマッチングを表現すると、バウチャーになるというだけであって、普遍(必須)的ではないが、もちろん社会条件次第では有効なのだから排除されるべきではない)

さて、学校の理想が表現されているのはどこだろう。カリキュラムが真っ先の思い浮かぶが、建築物もそうだろう。学校建築史を見ると、学校では何が理想とされたかを見ることができる。現在の廊下のない学校は、どの理想を体現するために表現され、どこに由来があるか。集団の求め方が、我々の幼少のころとは異なっているが、我々の幼少のころにすでに一部実践され、輝かしい理想が語られていたのである。

※ちなみに、家族とりわけ夫婦もそうであり、それが「夫婦同姓問題」の原因となっている。しかし、それは所詮、1モデルであって、家族を解消すればすべての問題がなくなるわけではない。それは部分社会であるから、社会内の別の循環に接続して迂回した富を回収できれよくまた、意味論で解消される。そうして、社会的な不満足を一体とした総量が、その社会においてなるべく小さくなるようにするほかないのであり、それだけを見ていてもよいわけではない。夫婦同姓に関していえば、意味論で解消できる。即ち戸籍の廃止し、個人登録制(別の識別記号ー名前とは所詮単位を見分ける識別記号であるーでの「紐づけ」の確保)への移行(並びに家裁審判から名前変更の届け出制への移行)である。我々はどこかの社会には必ず属さなければならず、それは独自の循環構造を持つので、その循環構造のセットの(違いの)選択にしかならないのである。すべての制度は補完的である、これは何度繰り返し言ってもよい。