ディラン・トマスの言語性と村上春樹の豊かなイメージの隣にある幼稚性

 村上春樹受賞の機が熟した、というのは、そうだろうと思うが。
 単にノーベル文学賞受賞のハードルが下がっただけで、世界的情勢の変化によるものではない。ノーベル文学賞は「ふつうの文学賞」ではなく「世界的な、特別な文学賞」であろうとしすぎ、自縄自縛に陥っている。

 村上春樹は性描写もいとわないし、それが物語上意味を持つこともあるが、『SHAME』を描くことはない。描かないのではなく、描けないのである。
 彼には彼の良さが確かにある。しかし、彼には何かが欠けていることを、素直に受け入れなければならない。それは人格と成熟に関することであり、その二つは社会性に根差すことである。村上春樹は社会をうまく描くことができない。イメージに依存するばかりで、存在を潜在的に定義づけることができないためである。欠落を描くことはできる、それはイメージできるからである。しかし、「ない」ことを以て「ある」ことを想像するのは、ただの美しい誤解である。村上春樹は数多くの美しき誤解の利益を彼以上はいないくらいに受けている稀有な存在である。

 

 

今更、あるいは、いつまでも、「王様は裸だ」もないだろうと思う。

 

 

 問題は、小説以外の形式の方が、豊かな文学性を獲得してしまっているか、さもなければしつつあるのではないか、ということである。それなのに、小説の文学性は、そのハードルを下げてしまってよいのであろうか、ということである。
 ともかく。ノーベル文学賞受賞のハードルは下がった。村上春樹がそれを受賞する気が熟した、と言ってよいと思う。ただし、それは、村上春樹の、聖書がエリートの秘儀であった時代の聖書によらずして何かしらー教会による支配も含めてーを企図したイメージ群に似た大衆性によるものであるが。我々が言語を捨てるとは「天使とは何か」の疑問を捨てることである。

 村上春樹の「哲学」は純粋に日本的な、古典的なことで、芥川ならその教養でそれを近代性に対置させてなお近代文学の中にもそれを見つけることもできたが、村上の場合むしろただの感傷に過ぎず、しかし、我々は日本人であるがゆえに、それを他の形式でカッコ付けて表現できるに過ぎないんだ。ロシア人は誤解している。あるいは、ロシア正教の独特の立ち位置の歴史を持つゆえの、共感だろうか。

ディラン受賞、ロシア文壇の反応