結構、戦前は、まじめに考えていたのではないか、と思う。
今のところ、理解が難しいが、自分なりの受け取り方では。
「言う」:存在と不可分の、自己の境地の表出。
言の葉が命(ミコト)の葉(端)という説明は秀逸。→幽玄
現代的には、自己の主張、自己の感慨や感想を、文字を用いて外部に表現す
るときの発声のことを指すだろうか。
「云う」:媒介(他者)を経ずに※、直接観念上で対象化される(直喩)、他人の言葉
「伝」から人偏を排除したこと、という指摘は鋭いと思う。
※表現上は例えば「伝達文」を置くといったことで、「理解が難しい」と言
ったのは、言う/云うと直接話法/間接話法との区分の違いの有無について
の詳解が自分に不足していることによって認識が混乱しているためである。
古文でも尊敬表現について直接的に述べる場合(尊敬語)と間接的に述べ
る場合(謙譲語)があるのであるから、違いは意識されるはずだと思うが、
どうなのだろう
☆超越的視点の獲得と、主観 云うと謂うは、どこまで区別できるか
「謂う」:(もはや、人の言葉ですらなく、)概念の対象化
存在化(比喩機能化)を脱した、抽象的な世界観の獲得だろうか?
西欧的な「三位一体」や理神論を思い出して、なかなか興味深い。荻生徂徠や本居宣長の論争は一度勉強してみたいものだ。我々現代人が、いかに単純に物事を捉えているか、自戒を込めて。
「白峰」ってあるんだ。
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