「国威発揚」の何がおかしいか

【オリンピズムとは何か】
❶普遍主義
❷多様性

www.joc.or.jp


国威発揚」は、国家主義的乃至中央集権的で、

人間(オリンピズム)>都市(引き受け主体)>国家(協力機関)

の順を、逆転させる発想に基づくからである。
ただ、それだけのこと。
つまり、日本は、異常なんだよ。
(百歩譲って、国が「国威発揚」という場合、あくまで信用を損なわないために、下支えを「がんばります」程度の話だが(その割に大仰な言い方で、失笑を買うだろうが。)、主役たる「人間」(個人)が、言うべきではない。そのこと自身が、すでに統制的である(統制社会に生きている=オリンピズムに反する)ことをにおわせ、恥ずかしいと思う感性が芸術家にないことが(他人事ながら、同じ社会に生きる者として)恥ずかしいという入れ子構造になっている。

簡単に言うと、国家を呼び出すロマン主義はオリンピックに要らない、ということ。
国は雑用だよ。

組織委員会について|東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会

何が恥ずかしいって。
バレンタインデーが「恋人の祭」になっていることを日本人以外に笑われるくらいに恥ずかしい(必ずウケる、鉄板ネタらしい)。日本人同士なら、それでよくても(十分からそれなりにまで、わかっている人がほとんどだろうから)。
わざわざ国際舞台で、外国の方にチョコレートを渡すくらい恥ずかしい。


つまり。
国家観には2種類あって。Ⅰ道具的国家、Ⅱ主体的国家のうち、オリンピズムに関しては、Ⅰだろう。その意味で、「国威発揚」は、国家の威信(信用)を外国に向けて高々と掲げるちうことであって、国対国、ということを前提としているのであるから、齟齬をきたすのである。国家が主体的なのではなく、主体たる人間が集合しているだけなのであるから。たまたま、同じ船に乗る機会を得ただけなのである。このとき、発揚すべきなのは、個々の人間性である。それにコミットできないのであれば、そもそもオリンピックなど受けてはならないのである。

 

国際交流のための現代プロトコール

国際交流のための現代プロトコール