(メモ)非対称な文章の意味論

いろいろと考えさせられる文章に出会った。

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2つのコラムがあって、ともに「何かを言いたいけれど、何を言えばわからない」ときそれをどのように表現するかの、「周縁的な語彙で構成される文章」であるだろうと思う。だから、これをロジカルに捉えると、意味がまるでわからなくなる。
ロジカルに捉えられないさまが如何に、「ロジカル」に(ロジックを対象化して、サブジェクトと区別して)表現されているかを見てみたいがあまりにも面倒くさい。

要は、「1円玉の悲しみ」は即ち「高齢者が報われない悲しみ」、「1円玉」は「高齢者」の隠喩だろうと思うが、金である限り得られた万能感を信じた期待が損なわれたときの失望が、自己の能力の限界への焦燥となったようで、1円という紛れもない金が金として扱われないことに、高齢者という存在の社会における不安定さを思い起こさせ不安が掻き立てられる、という話だろう。
もうひとつのコラムも、『やってできないないことはない』と言うのだが、殊更「やるき」を喚起しなければできないほどハードルが高いのであって、その克服のコストの大きさに経済活動、社会活動が縮小している様子を描いている。
いずれも認知機能の衰えがテーマになっている。
価値中立な表示機能だけがあって、無条件に尊重されると信じていたことが、無条件ではなく、無意識にすぎないことであって、それが認知能力に支えられていたことに衰えて初めて気付いて、存在(カネ)の正当性が行為(シハライ)の正当性を導くと信じていたのが間違っていたのならば、非対称的に、行為の不当性が存在の正当性を脅かすことに怯えているのである。

この非対称性をこの2つのコラムは問うているのである。
これが先ほど述べた、ロジカルに捉えられないさまが如何に「ロジカル」に表現されているかを示した文章である。

コミュニケーションがヒトを育てる、といったときに、「育てる」とは「伸びる」ことならば、何がどう「伸びる」かと言えば、コミュニケーションをとる両者の  によって一方の  が「伸びる」のだから、存在の正当性と信じることはこのような社会関係の適切さに支えられているということである。

こういったことを機械的に書けるようになると嬉しいが。まだ技術的に難しい。

👇こういう政治運動は本質的に誤っていて全部潰すべきだと思っているので根気強く言い続ける。
正しい選択は(個人間の本質的対等を表現した)「個人登録制への移行」であって、「選択制夫婦別姓」は為にする議論でそもそも間違っていて、間違いを導く前提を内包しています。

 

 

トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論

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