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最後のホテルが言っていることは「アットホーム」ってことなんだよね。

「家」とはなにか。

個人を超えた財産保全の制度からばかり考えているとわかりいくい。

ただし、一方の理解は、「家」に限らず、文化圏によって、「地縁」「血縁」も同じ機能を持つ。情報ヒエラルキーのことである。

その例が、小室圭とお母様であって、本人のこと以上に、彼らの情報環境がモラルハザードリスクヘッジできているかだろうと思う。
ここで言う「モラルハザード」とは、プリンシパル・エージェント問題の類型であって、2ステップ間のインセンティブのマスク化のことだ。

彼らを「信じない」とき主に、彼らの知人の介入を
これは論理上の「嘘つきのパラドックス」と同じ構造を持つだろう。評価が反応的に変化するのだ。信用できると思えば信用できず、信用できないと思えば信用できる。
それを「信じない」という積極的な意思で拒否することの意義がある。

眞子さん側は、相手が十分謙抑的であれば融和的に接しその反対もしかりの反応を見せただろう。
そのすり合わせが求められたはずであるが、そのハイコンテクストな関係は、おそらく圭さん親子には資質的に難しかったのだろう。
悪気はないと思う。ただ、そういうことがどうしても難しい人が、世の中には居る。


そして、これは希望的な甘い観測になるかもしれないけれど、元婚約者の方も言うほど悪気はなかったと思う。
つまり、どうしても不調をきたすような相手と接したときに、晴らされない精神的なしこりが残るのだろうと思う。いわば靴の中の小石のようなことで、なんとかしたくなる類のもやもやに苛まされることだ。
小石を取ればなんでもないように、会えばスッキリするのではないかと期待することだが、それでもこのとき、眞子さんの判断が一番正しかったと思う。
会わなくてよかっただろうと思う。それはスッキリしないことだから。
仕方がない相手は居る。まさに(溜飲を下げる)「仕方がない」(資質の持ち主な)のだ。
そこまで判断できるということは、前途多難であることも覚悟していらっしゃるでしょう。

ただ、お二人に関しては、主観的には幸福感に包まれるかもしれない。
たとえ周囲から見て違和感を抱かれても。
この人でなければ駄目だったということがこの世界にはあるだろうと思う。