(メモ)荻生徂徠の法実証主義❷

 

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教育における構成主義(現代社会文化研究No21,283-297,中村恵子,新潟大学大学院現代社会文化研究科,2001-8).pdf
社会構成主義がWeick 組織理論に与えた影響(現代社会文化研究No54,121-138,新潟大学大学院現代社会文化研究科,2012-7).pdf
面接法による教師の学習観の研究(現代社会文化研究No31,211-255,中村恵子,新潟大学大学院現代社会文化研究科,2004-11) .pdf

朱子学のアンチテーゼとして徂徠が古文辞学を起こして形式を独立させ、一方で赤穂事件に対しては法実証主義と言える考えを提示し、ジンテーゼとして、和式の複式簿記の成立を見た。これが、簿記も言語と同じ(対話性を持ち、)規則束であるなら、ヴィトゲンシュタイン的な構成主義或いは、社会構成主義と言えるか。
つまり、複式簿記の成立がなぜ抑圧的であるか、の説明である。独立した形式的規範性の構成主義的な社会規範への再照射である。だから、ジンテーゼなのである。

数学に関するヴィトゲンシュタインの哲学の中に、構成主義の見解を明確にを見ることができる。彼によれば、足し算や引き算などを身に付けるとき、「明文化」される規則を教えられるのではなく、「実践」することによって足し算や引き算の規則を身につけていくのであるし、そのようにしか身につけることができない。数学の真実は、人間の活動から生じ、それらから引き離すことができないとする。

「教育における構成主義

 数学に関しては疑問だが、「数学」を「簿記」と言い換えると、和式の複式簿記が実践倫理を伴ったことと附合する。ちなみに、ヴィトゲンシュタインは、確かに小学校の教師だった(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipedia)。

そして、このような形式的な結合の確信は、明治期に、社会設計において「戸籍」として結実するのではなかったか。近世的な家内工業を合理化して、(資本主義を否定して、農本社会のままー貨幣経済の浸透によって、資本集約的な農業を目指していたのだろうか?早々に断念することとなったが)一定の資本蓄積をも企図した、一種の社団としての、「家」を単位として、外部に結合的に構成され、内部的には、そのようなこととして成立するように抑圧する。この「そのようなこととして成立するように抑圧する」を指して、実践倫理と呼ぶ。

ところが、『八紘一宇』は、若干ニュアンスが異なる。一つ屋根の下に食を共にするのとき、確かに、経済的な結合で、抑圧的であるが、情緒的でもある。
戸籍(の「家」)はまったく抽象化してゆくのであるが(資本主義への移行とともに、経済合理的な意味での実践を目指すことではなくなり、行政レベルでは、紐づけのための単なる記号の束になった)、社会結合の単位として、情緒が前面に押し出てくる。

「家」を、(シンボルとの対照性を旨とする)社会構成主義を補助線として、和製複式簿記系と情緒系の合流と考えると、なるほど、と思わないもない。