アナキスト民俗学: 尊皇の官僚・柳田国男 (筑摩選書)

アナキスト民俗学: 尊皇の官僚・柳田国男 (筑摩選書)

 

明治国家は、その最初期に、資本主義と農本主義の間で葛藤していて、「家」は(「家」の総有する、共同資本(多くが、現物)を前提として)農本社会の社団として構想されたに過ぎないー家長の権限の(前時代と比較しての)強化が、支配関係を生んだかどうかは批判があり、ただより近代的な組織を目指したと云われている。そこに矛盾(むしろ、資本主義の徹底化へのきっかけ)があったのかもしれない(実証的には、家長のシンボル化が進んだとも云われている)。ところが、近代憲法の市民性、とりわけ経済的自由権の資本主義的性格によって、農本主義は退けられるのである。
近代社会が合理主義に貫かれている※、と言うとき、それは特に「計量可能」を意味して(シンボルはニュートンー近代(古典)物理学の父、すなわち、数学的(古典的)予測の父ーである)、そもそも「社会主義」なのである。
※これを「充ちている」と読み替えると、日清戦争の文明対立や、満州地域(空白地域)への進出ともつながる、近代主義の充足原理とでも呼べることである。

トーテミズムを言うのであれば、「民主主義の母」イロコイについて言わなければ、フェアではない。
トーテミズム(トーテミズム)とは - コトバンク
イロコイ連邦 - Wikipedia
憲法原理的には、日本国憲法は、単に二元主義で、国民(集合)による結社主義を採っているのであり(行為論、認識論、認識論的存在論)、素朴な存在論に根差す人民民主主義からみると、頓珍漢になるだけのことであるが。