帰納主義の誤謬(途中)

陰山の「100マス計算」とは「コグトレ」の先駆けだったんじゃないかと思う。だから批判もあるのは当然なんだけれどー認知能力は人それぞれだからーでも成果が0というのもどうなのか?と思うトコロ。

 

 

ここ20年の教育改革には様々なものがあるけれど、その中でも、(いつも取り上げる)「ゆとり教育」と「全国テスト」を考えると、『教育実践』と呼ばれる、素朴な観察にもとづき実践される少数の成功事例による雁行方式が説得力を持ちにくくなっているのだろうと思う。
つまり、前者は「格差」を公式に認め裏から個別化ー集団に回収されずに、個々のつながりに拠るメンター化ーを後押しし、後者は帰納主義から素朴さを追放し科学者と(現場)技術者或いは机上の参謀と現場の作戦指揮者に峻別し学校機能を拡大したことが挙げられ、特に児童全員が受験することは、本来の目的とされる科学統計的な意味を超えて、それ以上の意味を含意するー即ち、マス教育の目的を超えている=児童それぞれにとっての、集団に回収されない、個別的意味づけが、ここでもされている。
ともに、(実は)「個別化」と「学校制度の拡大(補完機関との接続)」(前者は、塾などの民間業者、後者は、教育系大学並びに教育政策機関)を胚胎している。

もちろん、学校の授業は、全国試験で成果を測れるものばかりではないので、それ以外のことに関しては、まだまだ「実践教育」のknowledgeー知的資産の厚みが重要である。メソッドの流通に関しては、例えば所謂「受験産業」を代表に、ドリル化したテキストの供給が市場を通した個別選択という需要とのマッチングによって間接的に評価されることだったところ、受験結果自体から直接に(専門)機関供給

逆に、陰山の「教育実践」はそういった類ではないのか、と思えてくる。ならば、陰山が「陰謀論」に傾くのはむしろ自然に感じられる。それくらい素朴帰納主義は誤謬を含むことだからである。今まではそれを科学的に反駁できなかっただけではないだろうか。
ゆとり教育」も「全国テスト」も、ともに評判が悪いのであるが、実はそういった社会的意義があったと思う。

ちなみに英語教育に関しては、要は、明治6年に成立する(英學由来の)「構文英語(文部省東京外国語学校英語)」を差し戻して、(それ以前の)「逐条對訳(對話)英語」を指向しているように見える。開国時に戻っちゃったのだと思う。