スティーブ・ジョブズは天才か
昨日見せてもらった「『枕草子』は読解に、思索を要求し」という文のことはまだ頭に引っかかっています。清少納言という人はきわめて視覚的な人で、同僚からも「あんたくらいよ、そんな人が来てるものが何色と何色の重ねだったのかそんなに見てるのって」といわれている。その人が、
— 片渕須直「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」上映中 (@katabuchi_sunao) August 15, 2020
私は「天才」ということではないと思っています。
資質によるものであるし、「天才」と誤解したくなるだけの経歴の持ち主であります。
ただ、彼の言葉や業績は説明を要し、彼の仕事は説明によって感銘を受ける類のことです。彼は確かにインフルエンサーです。
ウォズアニックや紫式部は「天才」と理解されるパラメータの線上にいます。
ちなみに私も視覚優位者だろうと思います。
まぁ、38本のペットボトルが置かれている情景を全体として把握して、即座に「38本在ります」と回答できるほどではありませんが、系統としてはそうです。
変なことをいくつか思いても、「天才」と呼ばれるに足るようになるには、専門性の大きな壁が立ちはだかっていると思います。これを越えないと駄目なんです。スティーブ・ジョブズも、或いは、清少納言もそうだろうと思います。
だから、サイドストーリーが大きく膨らむのです。
それを以て「証明」とはなりません。
アンディ・ウォーホルだってアーティストですから、そういったことから考えたほうがよいと思います。
堕落し紛いもののアカデミズム文化を原料とするキッチュは鈍感な感覚を育てる。しかし、この鈍感さこそ利益の源泉である。キッチュは機械的であり一定の様式である。キッチュは他人の経験であり偽りの感情である。キッチュは様式によって変化するが、常に同じである。キッチュは私たちの人生におけるあらゆる偽りの縮図である。キッチュは顧客からお金以外の何も生み出さない。
ークレメント・グリーンバーグ『アヴァンギャルドとキッチュ』
朝顔に つるべ取られて もらい水
(35歳の時に、朝顔や~ と詠み直される)正岡子規は俳論書『俳諧大要』でこの句を取り上げ、もらい水という趣向や釣瓶を取られての表現がこの上なく俗であり、人口に膾炙する句ではあるが俳句とは呼ぶべきではないと断じている
加賀千代女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
片渕監督の「国文学的解釈への不満」は批判とは違うんだよな。国文学の分野での解釈が史実と符合しない、といったことだけではなくて「こうやって見ないと、こう読み取らないと、そこからドラマが浮き上がって来ない」と言っているのだと思う。 https://t.co/obxJY0cvSB
— Bunzo (@Kominebunzo) August 15, 2020