亡き人を想うことが亡き人への手向けになるのだろうと思うけれど、違うだろうか。

なんだろう。

心情って独立してあるものじゃなく。文化を鏡としてあるんじゃないかな。

そういったことが伝わりにくくなっているのかもしれないね。

「行間」が問われていると念を押されているのだけれど、「行間」は(内部で決定されないがゆえに)外挿されて違和感のない共有すべき何かだよね。

文化とは外部に表現されること、すなわちふるまいのことであるならば、そのふるまいは表面的にはわからない、間違ってしまうがゆえに、あえて説明の要ることだよね。
つまり、そこに書いてあることは、そのままでは正しく意味を採れない、ということじゃないの?

簡単に言うと、言葉尻に騙されたらダメだよってことでしょう。
こう言っているけれど、本当はこうだよ、という説明が求められているのでしょう。