漱石の心情

思いがけず漏らした友人の弱音に、彼の弱りゆき、万事がうまく行かなくなった末期の窮状を寂しく感じるとともに、それでも真摯に生きんとした姿に追慕を手向けている。

 


 

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 要は、正岡は女々しかったのだ。それに対して「雄々しくあれ」とは軽蔑の言葉ではない。それを「思慕」というのが正しいかはわからないが、寂しさを埋める為に反対にむくむくと湧き上がる高揚感を望んだのではないか。強がっているのはおそらく(子規ではなく)漱石の方である。

 

〇そもそも正岡子規は画を描くのが初めてだったのかー漱石は「拙」を観たことない
〇ならば、なぜ、「拙」になったのか。
〇寂しさとはなにか
〇子規は「雄々しく」なかったとしたら、なぜか
〇なぜ、それにもかかわらず、漱石はそれを求めたのか

要は、漱石の「強がり」は、手向けの言葉である。